誹謗中傷で考えたこと

なんか数ヵ月前に書いてたやつ思い出したから、こんなんかいてたなぁと覚え書きとして置いておく。


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コロナで感染者に対する誹謗中傷や、差別が問題となっているらしい。

それは、ペストの時のユダヤ人迫害とほぼ同じだ。なのに、新しい問題であるかのように扱ってるように思える。全く理解できない。

基本的に、差別や中傷(道徳の権威を借りること)は、社会によって発生する。社会が存在しなければ、道徳や他者への権利の優越欲だって起こり得ない。全くもって錯覚だ……とは言わないけど。

特に道徳(倫理学的な意味でなく)への適応要求は、社会において正しいと認められていること(と思われるだけのこと)を根拠としている。それは、その社会を自己形成の重要な拠り所としてしまっていることに原因がある。自己意識に他者が必要であることからも、それは理解できる。

腕を毒蛇に噛まれれば、その腕を切ることでしか死を回避できない、という思考と同じように、自己の外延である社会の不穏分子を摘出しようとする。それが、差別とか中傷の大体の発想だと思う。もちろん例外はあると思うけど。

これは、「自己は社会によって成り立つし、生存にも必要ではあるが、しかしその在り方は根本的に異なるものであるし、自己を帰属し得ないようなものだ」と理解すれば解決する。実際、私にとってのコロナはそんなもんだ。責任は自己にしかない。どんな言い訳をしても、それに決定したのは自分なのだから。

でも、それは万人に求められるものではないことは重々承知。しかし、その解決は社会でしかできないのも事実。社会が在るから生まれる問題だから。

その基本的な解決は結局、教育しかないだろうと思う。「現に今ある問題を、少なくとも数的・表面的に減らすにはどうしたらよいか」なんて処世術では、個別的であるため、形式が変わって残り続けるだけだ。「その問題がどう在り、それを生む根本の原因、動機はなにか」を探り続けるしかない。多くの人間の根本を変えうるのは、教育しかない(または宗教。似たようなもんだけど)。

詐欺師を例にとってみる。前者の科学的方法では、「詐欺の数を減らすため、独り身の老人に注意を促したり、銀行員が監視する」程度の域を出ないだろう。精々、監視カメラの増設とか、取り締まりとか、後だしジャンケンだ。(どうでもいいけど、教育とか文化とかで自己は規定されてるのに、そういった部分で「自由が阻害されている!」と叫ぶのは、かなり喜劇的だ。もっと問題視すべきところはあるだろう、と)

一方、後者の哲学的方法では、科学的方法を踏襲しつつ、「詐欺師を生み出す原因は何か」と問う。それは、「社会で働くことがその性質上、致命的に向かない人がそれでも生きていくためにそうした方向に走る」とか、「不当に利益を得る方が、手軽で沢山の金が手に入る」とか挙げられるとする。その根本原因として、「貨幣が万物に交換可能な絶対的価値尺度ととなっている」ことに見出だすかもしれない。その意識の変革が、理念として、思考の基礎として置くことができれば、長期に渡り、改善するだろう(それには、科学的方法が力を発揮する)。

結局なんやねん、と言われると、言論統制は意味がないってことが言いたい。一方的でその場凌ぎの暴力は大きな膿となって吹き出しかねない。

せっかく、学問とか細かく専門分化しているのだから、そうした問題の根本原因を、諸分野の優秀な学者先生たちがとことん掘り下げて考えて欲しいと思う(凡人であるわれわれには、個人をどうするかしかできないので)。そうでなければ、専門分野なんてただの自己満足の趣味でしかないのだから。

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