日記 2.12~20

─────────────

2/12

 なぜ、人はあるものを自らの下において(思想や真理、名誉や立場など)優越や安心を得ようとするのか?それが、生を、現在を肯定するのに有効であるがゆえに欲するというものでしかないのなら、他のもので代用可能だろう。例えば、自己というものが否定しきれない存在であり、共通性(相対性)を持っていてもそれが及ばない空隙(存在)を持つものだ、と確信できることなど。でないと、独善による無駄な差別、苦しめの竹箆返しを受けるだろうから。

 差別や偏見:①それは完全には取りさらわれないが、極めて無くすこと、その限界を追求するのは可能だろう。②およそ、それらは自己に適うものであるか否かによって判断されるように思う。そうでない事実や判断たちが、無関心ではなく忌避を呼ぶから。③自己と異なるものとしての芽:自分以外のものは人は真に知り得なず、懐疑を持ちうる。その生得的な個別性としての自己が死の威力によっても揺るがし得ない自己価値となろう。それに自然(気候、食など)・社会(家庭など集団、生活様式など)環境という経験として与えられるものが、形成されたものとしての自己に適うもの、発展するものとしての自己価値=善であるとなろう。こちらは、環境が変われば変わることは難しいだろう(変わったように見えても、歪であるが故に問題を孕む)。④社会によって助長されるものとして:教育・教化など繰り返しと集団承認の言葉で与えられる。それは、偏ったもの(言葉はある要素を切り取り、各々の人に備わる情念や経験に宛がわれるものであり普遍的に共有されるだろうが、その結び付きの様相はあまりにも自由だし、それ故にあらゆるものがある意味では同じではあるが、特異でもあることを忘れることから)として、自己の経験と省察に直接関係の無い、誤りを含む判断を生みだろう。④知ろうとしない無知によって:自己が絶対の足場を持つこと、そしてそれがなるべく単純で還元されたものとして、あらゆるものに(ある面においては)当てはまるものとして、普遍的なもに自己を同一させようとしたがるように思える(アートマンやら、宗教やら、学問やら)。しかし、それが何ゆえに求めるのか?それが問題であり、人の本質(なにであるか)を求める契機であろう。ともかく、自己と対するものをなるべく無くしたいと願い、それと反するものを自己の言葉に還元し、或いは遠ざけるだろう。

 解決するためには?:綜合として、個別性と関係する大系としての考え方。ある一つ、一面から語られるのではなく、また、自分の外側(知らない、知り得ないもの)について、判断はできても真である、善であると規定し得ないこと、自己充足的であり(自己を含め?)それらすべてが手段であり、それらすべてが否定に曝され乗り越えられるものであろうこと。


─────────────

2/14

 人は現象を明晰に認識できても、それらを言葉に細分化できるわけではない。ましてや、その過去をすべて遡ることも、生滅する我々には。外延でも経験そのものではないから。

 本来的な生を、最も必要とされるもののみを守る、全ての人にとって「当たり前で、あるがまま、定められた機能、認識された現象そのもの、素朴な論理、倫理」が有徳者で、過ぎたるもの(自らや他者の破滅、支配を欲望に従って望むもの)を恐怖、支配欲に駆られたりることに従う一面的な側面に縛られないそれ?それは、その外を望んで試行錯誤した人が、否定性を以て知ったことの一つだ。放縦の欲望と統一された(他物とこのこれ、身体・精神、諸々の立場思想を統一した、その存在がそうあること以外個物として存在できないような、自己自身を知るものが当然とるであろう綜合的な)判断が最も個人の必然的なもの(善)?過ぎたこと、現在性への否定が誤りを含む(個別的な、修正される歪な観念連合)判断を生む?

 自己が絶対であるとすれば、相対されるのはいかなる理由・領域においてか?それによって、人は自己の揺るがない定在を得れるのか? 


─────────────

2/20

 なぜ、欧米諸国は個人主義的だ、といわれるのか?文化より原因としてのものがありそう(信仰、環境、人種の性向など、複合的?)。信仰(キリスト教)であるといっても、それが生まれる・受け入れられる基体が無ければならない。それはなんなのか?人のあり方にどう関係するのか?或いは、極めて相対的なものに過ぎないのか?

 平等を訴えるなら、国という恣意的な区分や男女の区分も捨て去るべきであろう。平等=その対象をそのものとして慎重に恣意的な前提を置かず、他のものとの関係・相対、差異性を見定めようとすることとするなら、あらゆるものがいかなるカテゴリー(類)にも完全には属さない、孤独なものどもと見なされてしかるべきではないか?それは個人主義的な動機を含む?しかし、人はそれだけでないこと示したい(ドグマティストでないこと、批判的に正しさを訴えたい)のなら、全体論的なある包括的な、普遍的な類について、人の性向や渦動の発展(歴史)も大系的に知ることが求められるだろう。 

 悲劇は葛藤から生じる。同じだけに見える正しさ、他者と自己といった明確に証示しようがない(超越)ものから。その不和の解消、自己の知・欲求と現象の統一を求める。

 あるものとして在ること、常なる激流の渦に晒されているようなものだ。それらは、すべてに対して関係しながら、構成者の意志など構わずに流れをつくる。波の流れを掴み、それに乗れれば楽に速く先へと進める。それは喜びだ。しかし、少しでも波に逆らうと、激しい衝撃と力で以て、身体は弄ばれる。苦しみだ。またその渦動は、進んでいるようで決してその先へとは逸しない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?