見出し画像

独善

 その夜は星が雲で覆われており、空と海の境もなかった。

 はぁ、はぁ、と激しい息遣いと波をかき分ける音のみがその静寂で孤立している。
 漠然とした意識の中で、ふと目を手元から離す。薄青色が行く先を包んでいた。その時になって、私は目的地が目前であることに気がついた。

 〈やっと、やっとだ……これで報われる!〉疲れもふっ飛び、櫂を持つ手も力強く、早くなる。もはや、思考する余地もなく、ただ、喜びの中で必死に体を動かしていた。 


 黒い帷から瞼を開けると、白天井と白い服に包まれた。彼らは、私の名前だとか身体の状態だとかを細かく尋ねてきた。まだ意識もはっきりとしていなかったため、質問もその答えも碌に覚えていない。
 そこは病院であり、清潔で、過ごしやすく、甲斐々々しく世話をしてもらった。
 数日経ち、軍人らしき2人の男が病室を訪ねてきた。
 「あなたの事を聞いて来ました……彼の国から逃れてきたというのは本当ですか?」のっぺりとした顔の男がそう訊いた。
 「えぇ、その通りです。船を漕いで……」
 「海を自力で?それは大変であったでしょう。本当はゆっくり休んでもらいたい所ですが、訊きたいこともあります。我々と共に来てもらえますか?」男は微笑を浮かべながら話していた。物腰の柔らかく、人の良さそうな態度であった。私はそれに答えると、用意された服に着替え、連れ添われ一緒にて病院を出た。
 窓から見える町並みは、狭く高かった。 


 私は大きな黒い施設の中の一つの部屋に通された。部屋には机が真ん中と隅に二つと椅子が三つ、紙とペンに蝋燭があるのみであった。戸惑う私を見て、のっぺりとした男は机を挟んだ、向かい側の椅子に座るように促した。もう一人の男はさっさと隅の机に向かった。ごぉお、がごんがごん、と3つの音がなった。
 「さて……」ふぅ、という吐息で伸びた空隙を瞬きの静寂にする。男は絶えず浮かべていた微笑を消し、さっと大事な話をする時の顔に変えた。
 「ではまず、なぜあなたがこの国に逃れてきたのか、聞かせてもらえますか。」その顔は、〈これから話されるのはあなたにとって辛いことかもしれないが、こうして真摯な態度をとる我々に対して、あなたは正直に話すべきだ〉と強く語っていた。勿論、私もそのつもりだった。すぅ、ふぅ、と一息整え、記憶の最端に立ち、言葉を上げた。


───────……………

 我が国は、元々、農耕と牧畜を生業としていました。言葉は必要なものしかなく、生きるために無駄なものも何一つとしてありませんでした。それは、数多の神への畏敬であり、身の程の分別という智慧でありました。
 しかし、歴史は渦動する。技術と産業が生存のための力となり、我が国もその流動に呑まれねねばならなりませんでした。
 見たこともない飾り、命を易々と奪う銃火器、夜闇を眩ます電気、聞いたことのない高尚な言葉たち──学問が一気に流れ込んできました。それは大変な衝撃であったでしょう。はじめは抵抗も強かったが、一歩だけ、一歩だけと欲求を誤魔化しながら進んでいき、気付けば風景の跡も残さず、出発点なぞ振り替えることもないように、生活は変化していきました。
 数十年以上の時を経て、もはや、かつての様式など完全に忘れ去られた、と多くの人が感じていました。過去は捨てられたと。
 しかし、いくら生活が変化しようが、自然の風土やつくりが変わるわけではありません。その空気は身体の一部であり、壮大さへの適応を求めます。適った中心点から離れれば離れるほど、全く逆方向への転換が発作のように。それが、反体制と、文化復興の衝動となって現れたのです。
 圧せられた分、その衝動は苛烈となります。あなた方の国の出身者や公舎を襲ったり、デモやストライキを行い、死傷者も出る事件が幾つも起こったことはあなた方もご存知のことと思います。
 しかし、我々は本当に正しいのか、と自分自身に帰ってきたのは、その手に銃の重みを感じたときです。
 その後の集会で、私は仲間たちに尋ねました。我々のやり方は間違っているのではないか、と。
 途端、怒号が飛び交いました。「我々の思想が間違っていると?……なんてことをいうんだ!……君だって理解者で、判断力をもった人だろう!……なら、正しさは明白なはずだ!」仲間たちは私を取り囲み、激しく責め立てました。
 「たしかに、たしかにそれはわかっています。政府は外的な力に迎合し、欲望に浸し、美しく偉大な禁欲主義者たちを殺してしまったことは。しかし、力でやり返すことが正しいと言えるのでしょうか?終わりない痛みの支配が続くだけではないのでしょうか?」と私は気圧されながらも言葉を返した。
 私たちの集団のなかでは最年長で、指導する立場であった者が片手を挙げた。それは彼が言葉を発する合図であり、それを見て皆、口をつぐんだ。
 「君の言うことも尤もだ。しかし、君は、このまま過去が墓も建てられず、下賎な大衆の欲望によって打ち棄てられるのを是とするのか?人間の画一化によって、我々、弱者が嬲り殺しにあうのを指を咥えて待てと言うのか?否、そんなものは決して認められない、偏った善意による支配だ!そうした多数者には、痛みを与えることでしか、経験を与えることでしか自らの独善を知ることはない!我々が全ての力無きものたちの剣とならねばならないのだ。命を賭して!希望は未来にしか無いのだから!」
 彼は段々と熱を込めながら、最後には叫びながら訴えました。仲間たちは変化の激しい現代音楽を聴き、それに負けじと気違いのように猛り狂うように、壊れんばかりの拍手を送った。その熱狂の渦を、私は冷めた目で眺めるばかりでした。
 その時から、私は今まで感じいた薄靄が一段とはっきり感じられ、その靄は幾日たっても晴れず、益々、濃くなっていきました。完全に道を見失っていったのです。
 その苦しみから、葛藤から、私は逃げ出したのです。彼処に、彼の思想に頭を浸し続けることに耐えられなかったし、背信者として断罪されることが怖かったから。誤っていることに耐えられなくなって。


 
 静寂。カリカリと響いていた音が止む。私は息を吐くと、上がっていた肩を下ろし、背もたれに体重をかけた。窓から入る陽の光が暖かく感じた。
 のっぺりした男は一段落着いたことを感じ、「ははぁ、なるほど、あなたの身の上はよくわかりました。では次に、あなたたちの組織のこと、その企みや構成員などについて、知っている限りを教えてもらえますか?」と、指を机の上で交差させながら尋ねた。
 私は、すべてを答えました。国への反抗の計画も、隠れ家も、仲間だった者や指導的立場の者たちも。剰さず、知っている限りを。罪を贖うように、自ら望んで罰を受けるように。軍人らはそれらの情報に大層、満足したようだった。長い、長い話を終え、もう話すことは残っていないと告げると、のっぺりした男は、「君のお陰で尊い命が守られるだろう」と、笑顔を浮かべ、肩を叩いた。
 彼らは、すぐに住むところの用意や生きていくための保証をしてくれることを約束してくれた。再び、病院へ戻ったあと、ふと、窓から外を見てみた。大きな月が中心で燦然と輝き、星たちは街を照らしていた。



 「どうですか?中身は。」
 軍服を着た若い男が、つかつかと近付き、尋ねる。声に反応し、男は持っていた日記帳から目を離すと、きょろきょろと部屋を見回した。
 「あぁ、片付け終わったか。……まぁ、これは概ね問題ないだろう。死ぬ直前の記録も残っていない。ただ、細かい修正は必要だな。特に、我が国のやり方、技術の発展についてだが……」手記を閉じて机の上に放り、椅子の背に肘を掛ける。
 「まったく、外から来た中途半端に賢いやつってのは……」男は煙草に火を着けながら、ため息を吐く。
 「しかし、幸いでしたね。被支配者であった彼が我が国への批判なんかを新聞社にでも持ち込んだら、大変な騒ぎになっていましたよ。」若い男は腰を落ち着け、言った。
 男は肩をすくませ、まったくだ、という意を示した。
 「文書という形を残すことを民衆は望むが、それは自分が納得するものとしてだ。自国の支配の歴史を受け入れても、それに自分達がどうか関わっていたのかという、その凄惨な内容も、どれだけ多くの人間を殺して或いは苦しめてきたかも聞きたがらん。結局、その個々のものではなく、一般的な事実だけ見て自分がリベラルだと気取りたいのだろう。あくまで、今を肯定してれるものを、我々が確実によい方向へと変わっていっていることを保証してくれるものだけ聞き耳たてて。現にどうあるかも、大して知ろうともしないのにな。」彼は煙草の白い煙をゆっくり吐き出し、愚痴を溢すように言う。
 「そういう言い方は止めた方がいいですよ。反逆罪だ……!」若い男は茶化すように言うと、彼らは荷物をまとめ部屋を後にした。
 部屋は全く何も残ってはいなかった。すべて、彼らによって処理された。記憶も、記録も。まるで、元から誰もそこにいなかったかのようだった。

 やがて、ここも人の意思によって押し潰される。私に適うものに溢れたまえと、その死体すら焼き棄てて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?