日記 3/2~4

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3.2

 批判すること、中立を忘れずに意見すること。これは自他共の意見を揺るがないもの、信念(空隙持つ人という個別であり且つ、綜合として普遍的な威力を持つもの)を明らかにするための手段であり、それ以上の目的も力も認められない。その批判を(ドグマ・独断ではなく)乗り越え反駁され続けることを喜びとし、道徳的な──その個人としてあるべきとしてある──人間への止揚を快ぶべきであるだろう。 

 自由意志:必然性こそにある?……「身体の反応の仕方がつまびらかにされれば、個人性にも法則性が見出され、その状況・行為者において持つ意志と実践される行為は記述できる、つまり自由意志は誤謬だ」と考えられる。しかしそれは、「自由」を「放縦」と吐き違えている。「ある諸条件のもと、ある様々な性質を纏める個人が持つ意志」、つまり身体・環境における物質的原因を前提にして成り立つ。それは、禁止されていること以外可能であるものだろう。

 行為と意志は異なる。行為は同時に一つしか実現されなくとも、意志は可能的に持てる。また、同じ行為でも(そも、全く同じ状況・行為者が現象可能か疑問だが)、人により反省したり持てる様相は異なる。それが必然性の束であったとしても、一つひとつ、紡がれる糸の色相は豊かであろう。

 自由意志はその時々の状況や情動による反応だけでなく、私という存在の全体を鑑みて下される、自己という刻印が記される(「私のもの」という責任を負う)もの、自己に基づく目的や理想という意味も含む。

 また、法則性を無意識に至るまで我々は明らかにできるのか、という問題もある。それは未だ実現していないのだから(蓋然性の高い傾向性の把握は可能だが)、その考えを強要することは無信仰者に「神は実在するのだから、信じない君は間違っている!何がなんでも信仰すべきだ!」と言うのと同じだ。少なくとも、自由意志を消極的にでも認めることは、生の肯定、知ることの追求、自己が他者(他物)を同等なものとして認めることなど道徳的な意味があるし、自由意志があるとすることの意義や動機も探られてしかるべきだろう。明らかでないことを手前勝手な考えに還元することによって判断することは致命的な誤謬に繋がりうる。 


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3.4

 先人たちに敬意を払い、真摯に学ぶ。しかし、その権威に与ることなく、言葉のみで満足せず、自己を明らかにしあらゆる責任を持つ。「人能く道を弘む。道人を弘むるに非ざるなり」と。 

 道徳的な人間(開かれた、自己充足的で絶対肯定を持った、素朴な人間)、皆がそれであるなら上手く社会(人間、自然全体の調和を考慮するものとして)を模索し続けることが可能かもしれない。しかし、一部の個別的な信念としかならないのなら(万物は物質として空隙を持つため)、悪徳で小賢しい人間に悪用され、形として(欲望を満たすものとして社会の制度を作るような)得しているように見える。それを他の独断者、偽善者(完成にほど遠い人ら)が道徳者を勝手に解釈し、自己の捉えたものを全てとして、全体の代表者・理解者として本質を外れた(思慮が足りない)善を主張する。それも考慮の契機ではあるが、結論・信念では決してない。だから、そのあまりにも不全なもの同士の対立が常に誤り・個別性の無視を含み、社会において道徳は完成しないように思えてしまう。だが、それは道徳的対立ではない。控えめで、彼岸をあらゆる視点から悲願する、開かれて揺るがない自己として求める姿勢、情動に理論を従わせるのでなくあらゆる情動を含むものとしての理性、あらゆる真に迫るるものどもを前提にする自己充足は対立を越えているから。 

 神は独善か?自らに適うものによって一を形作り、時たまそのあるレベルでの全体に反する個別が生じる。変化の機運を残しながら、自ら(自然原理)と決定的に異なるものの存在を認めないから。まるで、自らの正当性を示すために控えめな自己批判を行い、それに反駁して満足しているようではないか。

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