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そこではないここ、かきなぐり

 対立が存在することの本性である。それは万物であり、人を絶望させ、懐疑に走らせ、神を生み出し、一となる。

 ──自己保存の根元的欲求……なるたけ合理的に生きること、生存へ(それが不安の根源であると理解しつつ)不安を感じないような静謐を求めること。死を捉えつつ、その虚無と向き合うことから目を逸らすための死後や子ども、ミームの永遠性という外在的価値を求めること。

 ──普遍的自己価値の外在……社会への帰属、原理の定礎、信仰、またその独断を普遍にするために多くの意志により承認させようとすること。生存の苦しみから逃れようとすること。

 ──必然的偶然性による多様さによる変化の可能性の消滅……静謐な同一性(自己同化)を求めつつ、変化を殺し発展の可能性を潰そうという傾向。人類を憂いる道徳や普遍性を持たせようとする学問、幸福と安寧を求める社会が、他ならない人間・世界の個別性・多様性という進化や発展の起源を間引いてしまおうという反-人類的な行為に他ならないという葛藤を孕む。

 ──自己充足を他物に定められること……自己を絶対的にするのは自己の存在に他ならないのだが、自己はその外という空隙という名の否定性の存在がなければ成り立たない。しかし、外在にその価値と規定性の大きなウェイトを置くことは、その変化が自己の死や崩壊のための衝撃的な否定性となるので、自己にその価値の根底を置かねばならない。それが行き過ぎると独断となり、また自己の死とバランスをとろうという自然的全体規定により比例して大きな否定性が加えられざるをえない。また、社会・他者により自己否定が加えられるのにも関わらず、その救いを他物との共感の意識や、それと異質の外在へすがりつくことで得ようとする生を超越できない手頃で半端な自己否定による表層的な生の肯定。


  人間の技術(欲求実現のための手段)と自然的他者(全体における関係性)が、──自己が、人間がいかなるものかという歴史的、道徳的、独断的な、全体関係的な内省を行いながら──如何なる変化をするべきか(それは全体を乱すこと=自らを滅ぼすことになることには成らないか、個物と全体のそれぞれの関わりの在り方という、欲求と過去反省による未来への多様な考慮の批判的調停判断の努力)

 しかしそれは、やもすれば、多様で広範あるべきであるがゆえに対立を常に抱え、限定性は常に打ち捨てられ、個人は意味を持たなくなる。では、外界の閉め出し、独断の井戸の中で無限性の空を見上げつつ、自己自身で充足して生きていくべきか?また、自己を外在におき、それを普遍化するためにそれ以外を否定し続ける支配を求めるか?或いは、自己と歴史を捨て去り、全体の必然性の流れのなかで人間という個物として、自然の単なる数として揺蕩うべきなのか?

 いや、個人は如何様に在っても否定しきれないものを持つから個人として存在しているはずだ。全体は調和を持ちつつ多様な変化を望んでいるからこそ、時空やそれらの変化・拡がりといった多種の法則(関係)を持ち合わせているように見える。「そうでないもの」であるから広がりを生み出せるし、世界全ての存在や外延としての原子や遺伝子は過去の試行錯誤を記憶し、その否定から新しく広がり在ることを──原理を持つようにも見える。しかしそれも、また、吟味され、否定され、乗り越えられるべき一つの契機に過ぎない。


 葛藤や対立、矛盾は人間が人間である以上、抱えるべき・ざるをえないものである。それをなくすことは、神になることであり(それは超越的直観として、純粋形相として、道徳的真理として欲求されてきた)、そこには個別の意志も特定の性質も持たない。あるのは、全体としての流れであり、個物(性質の無限最小)の関係による反応連鎖の体系としてであり、在るものは在るという真理であり、それ以外は何も持たないだろう。


 「答えは一つではない」というのは、「主客相対的で多様であり、絶対はない」ということではなく、「あらゆる認識は「そうでない性」を含み、真なる絶対性を志向し試行する営みをその目的として持つ」ということだ。つまり、前者のような独断や閉じられた限定性ではなく、無限性を求める生への衝動である。それが有り体なものであっても痛みを強制するものであっても、存在からは逃れられない。

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