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なんもしたくないこと
過去あった自分を反省し、今ある自分を批判し、未来あるべき自分を創る。
自分とひたすら向き合い、「自分はどういう存在で、どう生きるのがよいのか?」と問いつつ、様々なものを見て、経験し、思考を、自己を拡げていく。そんな生が送れたらなぁ……と思う。
しかし、そんなこと言ってみろ、「何言ってるんだ、お前は?そんな現実逃避なんかしてないで、ちゃっちゃと社会の中で他者に尽くして死んでいけ。それが、お前にとって最大最上級の幸福と知れ。」と袋叩きにされるのがオチだ。ごもっとも。
しかし、あなたたち、社会にいつの間にか押し付けられた価値を、無根拠に絶対視してるあなたたち。
共同の幻想を見ているあなたたち。今ある物質的豊かさを手離せないあなたたち。
他者から少しでも優れたいと自己を見失うあなたたち。
数でしか人(々)の価値を計らないような人たちのもとで「掛け替えのない自己」なんて、本当に重んじられるだろうか?捨てられた人間性は、あなたを孤独から救うか?
たとえ、私もあなたも天与の人ではなくとも、無限を目指すことはできる。その在り方はきっと価値あるものだ。
なのに、上昇ではなく、現に在るものを相対化することでしか価値が測れないのは哀しい在り方だ。
争いによる足の引っ張りあいが、現にあると見なされているだけの価値に自分を合わせていくだけの資本主義が、自己、ひいては人間の上昇を、よい終わりを生むか?
生むのは、妥協と惰性による生であり、なるべく多くの他者(そんな他者があなたの中以外に、どれほどいるのか?)と同調することであり、苦しみがないことを幸福と同値と見なすような思想である。
結局、キェルケゴールやら、ニーチェやら、ハイデガーやらが問題視してたのは、そういったことだったんじゃないか?という気がする。分からんけど。
そう見ると、「人間って成長してないな…」と感じてしまう。人間は物をうまく扱う現実世界だけではなく、物からあって物に還元不可能な精神世界にも生きる生物であるのに。
まぁ、結局、これも自己正当化に過ぎないけど。
しかし、好きに学ぶのは自己の言語化であり、明確化だ。
「群衆は自分自身の思想が語られるのを待っている」――アラン
確立することは自由を意味する。
あるいは、自分の思想体系のなかである程度の整合性をとれるような考えしか受け入れない。根本を揺るがしかねない矛盾で無ければ許せるのが人間である。
それでも、全く異なる他者なんて理解できない――少なくとも、言葉では。知覚や経験という最も詳細で孤独なデータでしか。
それをいかに言語化するか、という自己正当化。そしてそれは、孤独ゆえに如何なる思想とも混ざり合わない。
また、理想は現実の受容からしか生まれない。現実を無視した理想など、差別と自己破滅を生み出すだけだ。
その先で人は、安直な相対主義にたどり着く。それをいかに乗り越えるか?それが今後の課題だ。
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