ナリカワコウト
はじめてナリカワのページに来てくださるみなさまへ。(2023/12/01)
等身大でいろいろ書きます
テキトーに思ったことを書き散らしているものを集めています。
最も感情的に、観想的に、鑑賞的に感傷をふりかえります。
気づけば4月になりましたね。本州は花粉がヤバいヤバいので逃げてきました。今月はそれほど多忙でもない(予定な)ので、積み本でも消化しようと。あとは、今年のフィールドワークを見据えて人類学の勉強を本格的に進めようかなと思ってみたり。 ただ、昨年度まったく思うように研究らしいことができなかったため、人類学に注力すべきかはたまた他のところに浮気して視座を増やすか、なかなか模索中です。自分がこの分野に向いているのかも、おいおい考えねばなりませんね。 フィールドノート 人類学を
「なあ、辞めとこって!何も決まってないのに相談行っても恥かくだけやって!」 「いいや、何も決まっていないからこそ相談に行くんだ。恐れることは何ひとつない。」 「でも…」 「ほら、行こう!」 「いやいやいや、だって、教授も忙しいやんか」 「それはそうだけれど、僕らの相談を受けるのも先生の仕事さ」 「いやぁ、でも、そんな急ぎの用じゃないし…。それに、顔は知られてるかな、くらいの関係やし…」 一方の男は完全に及び腰である。他方、もうひとりの男は勇んでいる。"教授"なる者はそれほ
おはようございます。大学生です。より正確には3回生です。 なんだか逆張りみたいなタイトルで始まりましたが、今回の要旨はコレ☝☝☝です。なお、私は文学部の人間なので、ほかの学部、あるいはほかの大学の事情は分かりません。また、実体験のみを参考としているので偏見も誤解もあるかもしれませんが、ご愛嬌。 第1の錯誤 「勉強する」と「学ぶ」 準備運動としての単位 さて、わが身を省みると、卒業に必要な単位はもう取り終えましたが、卒業に必要な教養はまだ2割くらいだと思います。ヤバ
おはようございます。フィールドへの道|ナリカワコウト (note.com)の続きです。別に続ける気はなかったのですが、昨日の気づきをふまえて文章を残すとすればこの続きに置かれるのが最も相応しいように思われるのです。 ということで、前回を読んでおられない諸賢もぜひお手柔らかに。 日記って、意味ある? 私は、フィールドノート、より広く言えば日記が書けません。そしてその理由が①メンドくさがりだから、②言語化がムズいからの2点ではないかと以前説明しましたが、それが少し不正確
でも、やっぱりあのブーツを買おうかなぁ…。こんなひとり問答をしばしばする。これは「でも」を鎹にしてその前と後とが明確に対比されている。(このことについては少女熟成中...1|ナリカワコウト (note.com)でも言及していますが)。いわゆる「逆接」のディスコースマーカーと呼ばれるヤツだが、ご存知の通り逆接の後に来る方が大事というパターンがほとんどだと思う。「アイツは良いやつだ。でも金勘定にウルサいんだよな。」「アイツは金勘定にウルサいんだよ。でも、良いやつだ。」ではまった
がおー。意図せず連休が訪れているのですが、ダラダラしちゃってどうも…。まあとりあえず、続きです(前回はココから → 晦渋の怪獣①|ナリカワコウト (note.com))。 念のためですが、晦渋は「かいじゅう」と読みます。なんで「がおー」と言っているのか、伝わっていない人がいたらしいので補足です。 文学から日常へのきざはし 『文学形式の哲学 ー象徴的行動の研究』というケネス・バークの著作があります。2年ほど前に、何故だか覚えていませんが半分ほど読みました。これはなか
本って大事ですよね。蔡倫あたりの時代に紙(神)が登場して、それ以降「情報が多い・軽い・小さい(運びやすい)」の三拍子がそろった神ってるメディアとして爆誕した本。こんな叡智が所狭しと並んでいるのが図書館という魔窟です。 さて、そんな図書館ですが、あまりに本が多いのでたいがいのネタは網羅されていますね。だから「こーゆー本が読みたい」と思っても数十冊ヒットする。さらに恐ろしいのは司書さんという番人。フワッとしたテーマをぶつけるだけで無限に近いデータを吐き出してくるオバケです。
おはようございます。みなさん積読してますか?私は何十冊かしています。実家に帰ると何百冊かしています。 そのなかには当然「読まねば」というものもたくさんありますが、もはや骨董のようになっているものもあります。ただいずれにせよ「捨てていない」という事実もあるわけで、結局何かしらの意味があると信じているからこそ残っているのでしょう。 先日ゆる言語学ラジオの水野さんが「積読は発酵する」みたいなことをおっしゃっていたの(引用かも?)ですが、きっと私もそんな思想にふかく共感できる積
おはようございます。最近どうも自分が濫文家?長筆家?呼び方分からんけどとりあえずなんか文章いっぱい書いちゃう人間だなぁと思っています。いつも目指した字数のだいたい3-4倍の分量になるので、出来るだけちょっとのことを丁寧に書くくらいの方が良いんだと思います。論点が散らからないので。ということで、引き締め政策がんばっていきましょう。 こう※○△主義 今朝の講義でICT教材と問題解決における行動主義について説明がありました。なんですが、どうにも「構造」主義に聞こえてならない
がおー。アホみたいなダジャレができました。下世話なものはダジャレ、高尚なものは掛詞です。 おはようございます、ナリカワです。がんばって文章を書こうと思えど、良いトピックなどそう見つかるものでもなし。正直、日記みたいなよしなしごとなので意味のないことをわめくだけで良いのですが、やはり世間の目につかぬとも限らないのでそれなりに中身のあることを言いたいよなという恥じらいが邪魔をしています。 ですが、ふとこれまで出した文章をふり返ったとき、どれもこれも満足のゆくものというわけも
自分が教養深いと思うことは普段ない。ただし、とくべつ無教養であると思うことも、ない。歌舞伎は年に1.2度。読書量は人並か僅かに多いくらい。 人類を教養レベルで輪切りにしたとき、だいたい真ん中のへんだろうという根拠のない憶測だけがある。少しがんばっても真ん中、少し怠けても真ん中。だからこそこれまで真摯に取り組む機会を逸してきた。またそれゆえ、ある種の恥じらいのようなものもふと頭をもたげたりする。「自分の浅学っぷりを明らかにしてしまうにちがいない」と専門家やマニアとの会話を避
おはようございます。ナリカワです。メルボルンから関空に飛び、現在帰路です。往路は谷崎の『陰翳礼讃』、復路は外山の『思考の整理学』を(いずれも2回目ですが)読み終えてしまったのでnoteでもやおらに書こうかと思い至りました。 1ヶ月ぶりの日本。1年ぶりの地元。ただしこれは帰国であっても帰郷ではない様に思われます。というのも、札幌から地元に帰るのとメルボルンからのそれとでは距離のほかにあまり大きな差がないためです。より正確に考えるなら、心理的な負荷が伴わないためとも言えるで
寒い日は、とりとめのないことを考えてしまう。これまでもきっとそうだったのだろうが、こっちに住むようになって、寒い日が増えて、自転車ですいすいと移動する代わりにひとりでのこのこ歩く時間が長くなったために気づくようになった。 それまで無視していた着想が堰を切ったように流れてくる。ここにこんな店があったのか。この木の樹種は何だろうか。どうしてマンホールのところだけ氷が融けているのか。思わず楽しくなる。 しかし不思議なのは、それでいてルンルンではないことである。それはたぶん、気持ち
おはようございます。ナリカワです。めっちゃ寒くなってきましたね⛄雪こそガンガン積もってはいないものの、道がけっこう凍っております。不便ですね。北海道2年目にはまだ厳しい世界です。 コミュニティの束縛 ある地域に暮らしているとそこで最も生活しやすいように馴染んでくるものです。私たちは言葉を巧みに使い、毎日ご飯を食べ、交通ルールを守りながら生活しています。でもそれが本当に正しいのかどうかを考えるには、それを習得する時間はあまりに短すぎます。 たとえば、信号。青なら渡る。
おはようございます。ナリカワです。隗から始まったかは分かりませんが、もう少しくらいクイズと私の話をします。 例会 クイズ界隈の人なら常識の話ですが、例会というのは簡単に言えばクイズ大会です。年に数回、仲の良い高校同士が当番制で開きます。私は中高一貫校の生徒だったので、高校のイベントに中学生ながらお邪魔することも間々ありました(というかメインでクイズをしていたのが中学生だったのでほぼこれでした)。 初めて例会に参加したのは中学1年生の夏休みだったと記憶しています。大
2023年11月28日 おはようございます。ナリカワです。このたびnoteアカウントを開設しましたので、みなさまどうぞよしなに。 唐突ですが、私はたいていどんな時間のあいさつも「おはようございます」です。みなさまがどんな時間帯に読んでくださっているのかわかりませんが、とりあえず「おはようございます」です。それは私が業界人であるからでは決してなく、この言葉の語源にさかのぼることが関係しています。 というのも、「おはようございます」は歌舞伎由来の言葉です。膨大な稽古を重