見出し画像

晦渋の怪獣②

 がおー。意図せず連休が訪れているのですが、ダラダラしちゃってどうも…。まあとりあえず、続きです(前回はココから → 晦渋の怪獣①|ナリカワコウト (note.com))。

 念のためですが、晦渋は「かいじゅう」と読みます。なんで「がおー」と言っているのか、伝わっていない人がいたらしいので補足です。


文学から日常へのきざはし

 『文学形式の哲学 ー象徴的行動の研究』というケネス・バークの著作があります。2年ほど前に、何故だか覚えていませんが半分ほど読みました。これはなかなか刺激的な内容だったのですが、別に何か具体的な足しになったわけじゃありませんでした。
 しかし、思わぬ再会を果たしたのが昨年。大江さんの本を読んでいるとき、なんとここからの引用があったんですね。文学はつくる主体(筆者)の動作も含めてのものである、文学は現実と虚構という明確な差異をまぎらかす、みたいな内容だったかと思うのですがうろおぼえです。邂逅のありがたみがデカすぎて吹っ飛びました。自分が何気なく惹かれたバークの本が大江さんにも読まれていたのだと思うと、わけもなく誇らしくなりました。恩師の行きつけのカフェをたまたま訪れて遭遇するような感じです。

 ただ、大江さんの文章で明確に憶えている内容がひとつだけあります。「なんてことのない景色でも、文学作品に心を打たれ、ふと顔を挙げた人の前には非常に大きなイマジネーションと感傷とが広がっている。」といった内容でした。要するに、現実世界文学の世界とは分離したものではなく地続きになっているということです。あるいは、文学はものを感じ取るアンテナを鍛えることができる、とも受け取れます。
 このことは、少しでも文学に触れたことがある人ならば納得できるはずです。筆者の表現にしみじみと感じ入ったり、登場人物の悲痛な言葉に感化されたりしているとき、文学の眼を現実に反映して当然だと思います。ただの通学路が、教室が、きわめて奥深いものに見えたことが誰しもあるかと思います。


不断の文学行為

 むむ、これを踏まえると、前回日常の具としてのことば・文学作品のことばを2分割しましたがどうやらそのようにぱっつりと分かたれるものではないのかもしれません。文学作品で磨かれたセンスが日々の暮らしでふと発露することもあれば、ふだんの生活で経験したことや痛烈に思ったことが文学の形で結実することもまた同様にあるのでしょう。

 ならば、日常生活で凝った表現をすることにもひとつの道理があります。言葉や表現の意味を正しく理解し、自分の生きている世界に対して感受したことを苦心しながら表現しようとするというのは重要なことです。それはもちろん、ひけらかすように何でもかんでも晦渋にすれば良いというものではありません。寧ろ簡潔である方がコミュニケーションとしては効率的(efficient)です。誰にでも分かりますから、理解も得やすいです。しかし、効率的(efficient)であるとは認められても効果的(effective)であるとは到底言えないのです。
 当然ですが、すべてのことを簡単に伝えられるはずがありません。いろんな状況があり、感情があります。そうした部分を捨象して「老人は竹を割った。裡から幼女が出てきた。」などとしてしまっては何のおもしろみもありません。ただ見たままに並べただけです。
 これを援用すると、別に言葉じゃ無くたっていいのです。絵画でも、音楽でも、踊りでも、なにか苦心をしながら自分の本意(しっくりくるキモチ)を表現しようとするところにこそ価値があるのではないかと思います。だからこそ頭ごなしに「分かりやすく」を主張する人々は貧しく、馬鹿なのだと思います。
 全然わけが分からなくとも、自分の表現を頑張っている人々に「もっと分かりやすく」「藝術的すぎる笑」だなんて口が裂けても言えません。なぜなら彼らは我々に伝えようと苦悩し、努力しているからです。
 もちろん象牙の塔にこもって自分の表現に固執する人間には痛罵を送りましょう。そんなものでは伝わらない、甘えるんじゃあない、と。しかし自分のキモチを語ろうと、すでに胃を痛めながらチャレンジをしている人間に追い打ちをかけるのは非人道的です。
 私も、あなたも、きっとそうした精神を以て、より効果的な表現を考えていると思います。そのためにやむを得ず生まれ落ちる怪獣を、飼い殺さないようにしたいものです。

引用文献

大江健三郎 1988『新しい文学のために』岩波新書.
バーク, K. 1983『文学形式の哲学 ー象徴的行動の研究』森常治訳 国文社.

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?