【大学いるうちにやっとかなあかんことメモ1】良い大学で良い授業受けてたら「学んだ」ことになるんですか?
おはようございます。大学生です。より正確には3回生です。
なんだか逆張りみたいなタイトルで始まりましたが、今回の要旨はコレ☝☝☝です。なお、私は文学部の人間なので、ほかの学部、あるいはほかの大学の事情は分かりません。また、実体験のみを参考としているので偏見も誤解もあるかもしれませんが、ご愛嬌。
第1の錯誤 「勉強する」と「学ぶ」
準備運動としての単位
さて、わが身を省みると、卒業に必要な単位はもう取り終えましたが、卒業に必要な教養はまだ2割くらいだと思います。ヤバいです。
これが高等教育機関の第1の錯誤を示唆する良い事例です。真面目に1学期あたり15回前後の授業に出席し、脳死で課題を出しさえすればたいてい2単位が来ます。しかし、そうやってポコポコ稼ぐだけでは教授はおろか、院生や先輩とインファイトできる基礎力すら身についていません。野球で言えば球やバットの握り方を学んだ程度、語学で言えば自己紹介ができる程度です。
だから当然、学び残しがうずたかくあります。そのテーマってどんなネタあるの?有名な研究者は?現代の批評は?実生活のどのへんに寄与してるの?近接領域は?
……。書いてるだけで具合が悪くなってきました。単位取ったのに何ひとつ答えられないテーマが私自身いくつもあります。もちろん勤勉に学問を極めている博学才頴の徒はすべての授業で扱っているテーマについて、論文を読み込んで批判もしているのでしょう。しかし、少なくとも私の周りにはそんな超人(※院生を除く)が見当たらないという話です。
「大卒が多い」ことの利用価値
しかし実際、大学生はみんなそんなもんです。それも、何十年も前からそんなもんです。特に親世代の大人に聞いてみると、「めっちゃ学んだ」なんて言っている人はほとんどいません(もちろん学んでない詐欺みたいな人もいますが)。
そうすると、大学で勉強したことは本当に自分の血肉になっているのでしょうか?もっと言えば、大学なんて行かずに4年間(または6年間)学費の分だけ飲みに行ったり、恋人とデートをしたり、ひとり世界旅行にでも行くほうがよほど楽しかったのではないでしょうか?ましてや、昔と比べて学費がめちゃ高くなっていますから、勉強が嫌いな大学生は本質的に大学生である意味があるのかな、とふと思います。
でも意外に、学問をする人間からすればこの状況はあまり都合が悪くないのです。まず、「とりあえず大卒」みたいなゴm…もとい、尊い価値観のおかげで大学に継続的にヒトとカネが集まります。
ただ、それ以上に大きいのは、教育のアピールをしやすいところです。例えば、「着物の生産がほとんど日本でされなくなって、工場などもベトナムに行っちゃっているのでヤバい。「日本」の着物産業を守らなければ!」という意見があったとして、「確かにまずいことなんだな」とは分かっても、自分で職工として働いたことがないために腑には落ちないのではないでしょうか。
そういう「理解はできるけど腑に落ちない」世界が私たちにはたくさんあります。しかし、教育はそうではありません。少なくとも義務教育はほとんどの人間が経験しているし、大学にも全日本人の半分近くが通ったことがあります。そのため、教育現場のココがヤバい!と言えばある程度イメージができるのです。
素人と玄人のはざま
さて…、余談でした。今回の本筋はあくまで錯誤を概観することでしたスミマセン。
卒業単位は学部や大学によってさまざまですが、だいたい120-150くらいかと思います。僕のところは卒論込みで132です。つまり、ひと学期15回の授業換算で60コマちょっとということになります。この数自体はそれほど問題が無いと思います。教養、自分の専門についてそれぞれ30コマずつくらい取るイメージですから、ある程度卒論になるレベルには賢くなると想像できます。
問題はこれが足し算のように上手くいかないことです。1コマずつ階段を上るように難しくなってゆくのではなく、同じ段で足踏みしたり、3足くらい跳ばないとムリだったりする授業がたくさんあるのが現実です。ですから、サボっても単位はくるし、必死こいてもあまり伸びないということが間々あります(これは必修の少ない(=自由度の高い)文学部の功罪とも言えますね)。
こーゆーことを繰り返していると、「素人とは言えない」と「院生には到底及ばない」との間に永久に閉じ込められてしまうのです。
ここで今回のテーマに立ち返ってみると、単位を取って、卒業に値する分の「勉強」はしているいっぽうで、そのネタについてペラペラ喋れるほどの「学び」を得ているかは怪しいという話に敷衍できます。
「学ぶ」ために
それでは、確実に「学び」を得るためには何が必要なのか。まず、知識が必要なのは言うまでもありません。自分の専門分野についてインプットをしておかねば話になりません。しかし、これは「勉強」の要諦です。したがって、それを実際に使ってみる経験が必須です。
たとえばレヴィ=ストロースという学者がいて、構造主義というものを説いたという事実をインプットします。次に、日常生活で先生や留学生と話しているときに考え方が違うことに気づきます。このとき、「なんで全然ちがう考え方するんやろか?」と疑問を生み出し、そこで「あ、生まれ育った環境とか価値観がちゃうんかもしれん!」みたいに思い出したとき、知識は経験と結びつきます。これこそが、前述の「腑に落ちる」体感と地続きになっています。
自分が学んだことを逐一この領域まで引き上げられればたいしたものだと思います。それこそ、そのへんの大学生とは一線を画す「学び」の持ち主だと言えます。ただ、教授陣を筆頭とした知の巨人たちにはまだまだ敵いません。何故か。それは、経験の汎用化に至っていないためです。
これは人類学などに顕著ですが、あるフィールドに行ってたくさんの発見をしたとしても、それを文章なりプレゼンなりにまとめて伝えるのは極めて難しいことです。現地で体感し、経験したことを聞き手にまるっとコピペすることは不可能だからです。だからこそしばしば「再現性がなく科学的な成果とは呼べない」などと批判されますが、それはあまりに狭量です。
真の学びは分野を選びません。たとえどれだけ個別的な経験であっても、本質をきっちり見抜き、聞き手にも馴染みのあるテーマにズバッと援用できるならば十分に納得できるはずです。
まったく異なる分野に思える時にも、根っこまでたどれば通底した認識があるはずです(…だいたいの場合は)。それを解さないニワカの徒が、やれ主観的なのはダメだ、やれ文系学問は無価値だ、などとほざいているのでしょう(もちろん、きっちり学んだうえで「この成果はこの点で不十分だ」と建設的な批判をくださる方も多くいらっしゃいますが)。ですから、まず自分の専門についてはきっちりかっちりと討論できるレベルまで修め、それと照応する専門外のテーマについても無理のない範囲でなるべく手広く触れておくことが必要かと思います。
真の学び
以上より①知識→②経験→③汎用の3テンポを踏んだものを私は学びと捉えており、ここに至らないもの(とくに①知識のみのもの)は勉強に留まります。
しかし、社会にはそうした勉強しかしていない人間があまりに多くいます。無論ですが、教育機関でしている事ばかりが学びになるわけではありません。くどいようですが、真の学びは分野を選びませんから、職場で、交友関係で、子育てで、あらゆる場面できっちりと学んだ立派な人はいるものです。
ただし、現状学びを軽視している人が多いのもまた事実。すなわち、本当は「社会全体が学びの場である」にもかかわらず「学校だけが学びの場である」と誤解し、「学校での学びは役に立たない」という的外れの批判をします。こうした2重に浅はかな誤謬こそが、その人がちゃんと学べていないことを裏付けています。また、そうした反面教師を見るおかげで我々は学びの大切さに気づけるため、彼らのしていることはその本意とまったく反対に作用するわけです。
これが第1の錯誤のミソです。勉強は意外にすぐできる。けれども学びは意外に難しい。このことを体感する人が少ないために、倒錯関係が発生することになります。かく言う私自身も十分に学べているわけではないため、この事実を理解こそできますがまだ腑に落ちません。なのでもう少し錯誤を考えた後、私自身がやらねばならないことをまとめるメモを作成します。つづく。
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