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【大学いるうちにやっとかなあかんことメモ2】お金稼いでたらエラいんですか?

 前回(【大学いるうちにやっとかなあかんことメモ1】良い大学で良い授業受けてたら「学んだ」ことになるんですか?|ナリカワコウト (note.com))の続きです。

 記事編集を始めると、「読んだ本の感想をnoteにかいてみませんか?」とありますね。いや、なんでデフォルトでそんなキラーパスしてんねん笑。そんなジャンジャン書評できるわけないやろ。
 まあそれはさておき、またずいぶん挑戦的なタイトルです。はじめに誤解を解いておくと、お金を稼げる人はエラいです。間違いありません。しかしタイトルをよく見てください。「稼いでたら」と言いました。「稼げたら」とは言っていません。
 まあ、そーゆーことです。ほないきましょう。

第2の錯誤 「学ぶ」と「働く」


スタープラチナのラッシュでも壊れない頑健さ

 さて、第2のばくd…じゃなくて錯誤です。第1の錯誤では、必ずしもいい教育を受けて勉強ができるようになったからと言って得意顔をするのはどうなの?ちゃんと経験した?といういささか説教臭いネタを考えました。
 今回はそれと少し異なる「働く」ことについて考えて、結局私は何をするべきなの?という問いへの鎹にしたいと思います。

「働く」の原点

 「働く」とはどういう現象か。生存に必要な物資等を得るために行動する行為のことです。これは生業と呼ばれてきたものを想像すると良いのですが、例えば食べるために魚を釣る、マンモスを狩る、ムギを蒔く。あるいは寒さをしのぐ貫頭衣や靴を編む。要は死なないためにせねばならないこと、というのが働くのおおもとの原理です。
 しかし、現代社会ではそればかりではありません。例えば、自動車部品の加工や、スーパーマーケットのスタッフなどは何か生存に必須なものを作っているわけではありません。もっと言えばビールの醸造業者やネイリストなど、必需品に対して贅沢品と呼ばれるようなものを提供している人たちなんかはもし消えたとしても一見何の弊害もありません。

どこまでが「働く」?

 では彼らはいなくても良いのか?そういう話ではありません。
 それこそお酒なんかは紀元前からずっと重宝され、地域を問わず発展してきています(日本酒、紹興酒、ビール、ワイン….)。さらには禁酒法やら輸送時の腐敗やら、数多くの壁にぶち当たりつつも現代までたくさんの種類が生き残っています。当然ですが、お酒がなくとも人間は生きていけます。Jカーブやらポリフェノールやら、ある程度メリットがあるらしいことを差し引いても、やはり生命活動には不要です。
 ですがやはり、生き残っています。これはとても不思議な現象です。残っているということは、必要だったのでしょうか。とすれば一体何に?ここで出てくるのが不要物の真価です。アルコールには気分が良くなる、コミュニケーションが捗る、嫌なことを忘れられる、などといった効能があります。特に対人コミュニケーションにおいてよく飲みニケーションというモジりがなされますが、まさしくこのゆえによってアルコールは生存してきたと言えます。生命活動自体には影響がなくとも、周りの人間とコミュニケーションができなくなるのは社会的な死を意味します。
 他の例もそうで、自動車が無ければ長大な移動ができなくなりますし、スーパーの店員さんがいなくなれば食品の品質管理や購買数の把握ができなくなります(万引きの問題もありますが貨幣を持ち出すと話がややこしいのでいったん無視します)。

仕込み中のビール(月と太陽BREWING様(https://moonsunbrewing.jp/)にて)。
膨大な量の大麦とホップを入れる。完成したら600ℓほどになるらしい🍺すげぇ…


 あるいは、家事とか墓参りとか、個人的なイベントも「働く」に含んでよい場合が多いと思います。家事代行なども職業になる現在あまり違和感がないかもしれませんが、それにしても「今から一切家事も墓参りもしてはいけません!」(「しなくていいですよ!」ではなく)となったらモヤッとする方もいるかと思います。それは、決して生活物資が手に入るというものではありませんが自分らしい生活を営むために重視されています。

 いずれにせよ、価値観も生活習慣も多様な社会では生存に必要な物資(のみならず精神性など)といっても衣食住に留まらないのです。
 ただしここまであえて言及を避けてきた「お金」という因子は近年の資本主義社会で無視できないものとなり、生活物資それ自体と言うよりも汎用交換チケットとして機能するようになってきましたが、今回はシカトです。

「働く」と「稼ぐ」

 したがって、働くことは必ずしもお金稼ぎをすることとは符合しません。もちろんお金がたくさんもらえて、福利厚生がバッチリな職はありがたいです(笑)。が、そればかりが働くことではないのです。
 一時期「主婦(主夫)はGDPに貢献しないから生産性がない」みたいな言説がありましたが、それは拝金主義の奴隷です。われわれの暮らしをきっちりひも解くと、お金や衣食住以外の部分で「働」いていると言えるような点もたくさんあるのではないでしょうか。

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「学ぶ」から「働く」へ

 さて、最後に学ぶことと働くことの地平がつながっていることに触れておきます。最初の問いに立ち返ります。

 「お金稼いでたらエラいんですか?

 この回答ですが、ここまでの内容から感じ取れる通り生活物資そのものを供給してくれている人、生き方が豊かになることをしてくれている人、ジャンジャンお金稼いで経済回してる人、みんなめっちゃエラいです(「エラい」の定義も雑ですがとりあえず私利を公利として社会にリターンしている、くらいのイメージです)。ただし、お金を稼いでいるという事実がそれ以外のパラメータと比べてダントツ・特異的にエラいとは言えません(今回のタイトルに限らずついつい要旨をおもしろおかしく語っちゃうクセがありますが、ちゃんと流れを説明するとこーゆーことでした)。


 さて、ここまで来てようやくなのですが、大学の勉強って「働く」と被るとこあるのでは???というキモチがあります。というのも、そもそも「職業:生」と言う時点で学ぶのが本業なのでその意味で「働」いているとも言えます。が、それだけではなくて「人生が豊かになる」という切り口でも学問の理念は「働く」と通じていると言えます。

 というわけで、次回は学問不要論にちょろっとだけツッコミを入れつつ、あくまで私が現在やっといた方が良いであろうこと、やったら何か見つかるかもしれないことに主眼を絞っていこうと思います。今回も最後までありがとうございました。


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