【他行為②】自分の中で反射する態
おはようございます。7月に突入しましたが、北のはずれでは依然三寒四温…いや、それはさすがに言いすぎか。一寒二温一暑くらいですかね。忙しいはずなのにそれにイマイチ気づけていない、そんなVia Dolorosaに立たされそうな今日この頃です。
前回(【他行為①】「する」の否定では表せない「しない」について|ナリカワコウト (note.com))の続きです。
ミリしらのための中動態
前回何も考えずに「声をかけようとしてやめるという中動態的な行動」と述べましたが、なんで中動態的やねん!中動態的ってどゆこと?というヤジが飛んできそうなのでここで中動態の話をしておきます。
中動態とは、能動態(~する)と受動態(~される)のハイブリッド(~して、~される)で捉えるのがもっとも語弊がないような気がします(バンヴェニストとケマーの表現に注目する限り)。ちなみにここで言う能動とは主体(自分)から対象(相手)への行為のことを、受動は対象(相手)から主体(自分)へのそれを表します。
中動態について専門書ではよく「主語がその座となるような過程を表しているのであって、主語はその過程の内部にある」(これは國分(2017)さんの言葉)みたいな言い方がなされますが、これは自分がしたことが自分に戻ってくるイメージです。具体的には、「自分の姿を鏡で見る」とか「ひとりごとを呟く」を想像してみると矢印の向きが分かりやすいですよね。「見ている」「呟いている」のも自分で、「見られている」「呟かれている」のもほかならぬ自分です。
(なお、よく能動と受動の中間・無主語の態みたいなことが言われていますが、主体のところに動作が返ってくるんやからフツーに能動寄りやし、主語あるやないかい!ということでいったん無視します。)
これをふまえて今回の「声をかけようとしてやめるという中動態的な行動」について考えると、声をかける(→)という動作について脳内で考えて(→)、結果自分の身体がそれをするのを止める(←)という→←の動きが明確に見て取れますね。これが前回の謎解きパートでした。
中動態の使い道
さて、中動態の一番単純化した内容はこんな感じです(厳密に考えれば再帰的な中動態やら自発との関連性について区分すべき点もあるそうですが、生きていくうえでニワカでもそんなに困らないのでいったん措きます)。
しかし、「これ知ってどこで使うの?」という質問が想定されます。普段生活していて誰から誰に矢印が向いているのかなんて、どうだって良いんじゃないか。結局何かを考えたり行動したりするのは他でもない「自分」なのだから、別に俯瞰しなくても良いんじゃないか。確かにそれも一面の真理です。
ですが、我々は他人と一切関わりを断って生活することはできません。あるいは、他の生物や無生物も含めて良いかもしれません。いずれにせよ、相互の意思疎通を介せず生命活動を営むことなどできません。
そこで重要なのが、自分の存在を仮構することです。初等教育の道徳で「自分が相手の立場だったなら」という仮定がなされますが、まさしくこれがコミュニケーションの要諦でしょう。当然相手と自分とを同一視してはいけません。が、まったく慮ることなく喋ってしまうと、伝わるものも伝わりません。ですから、(自分の想像できる限りでですが)相手の理解力、事前知識、自分との関係性を読み取り、自分なら同じ状況でどこまで理解できるかを承服して話すことが重要になってくるわけです。
「自分に向かって話しかける」こと、すなわち→←の真価が発揮される場面はコミュニケーションの現場にこそあります。
逆中動態…?
右向き左向きで自身に返ってくる態があるなら、左向き右向きパターンもあるのではないか。例えば、友人からプレゼントをもらった(←)とします。この時点では受動に違いありません。しかし、それで行為が完結する場合ばかりではありません。モースの贈与論は有名ですが、もらった恩を返す形で自分から贈り物をした時、それは→の行為だと言えます。しかしこの場合、→は自然発生的なものではなく←を前提としているので←→といえます。
これは私が現在確認している限りでは呼び名のない態です。たぶんきっちり調べれば何か出るのでしょうが、中動態が人口に膾炙しているのと比べてあまりに下火です。ですが敢えてこれに言及するのは、前回冒頭の問いかけに答えるためにこの考え方が肝要だからです。あるいはさきほどのコミュニケーションの例でも生かされます。詳しいところは次回また。
引用文献等
國分功一郎 2017『中動態の世界 ーー意志と責任の考古学』医学書院.
モース, M. 2014『贈与論』森山工訳 岩波文庫.
森田亜紀 2013『芸術の中動態 ーー受容/制作の基層』萌書房.
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?