【え?※○△って言った?】聞き間違いと構造
おはようございます。最近どうも自分が濫文家?長筆家?呼び方分からんけどとりあえずなんか文章いっぱい書いちゃう人間だなぁと思っています。いつも目指した字数のだいたい3-4倍の分量になるので、出来るだけちょっとのことを丁寧に書くくらいの方が良いんだと思います。論点が散らからないので。ということで、引き締め政策がんばっていきましょう。
こう※○△主義
今朝の講義でICT教材と問題解決における行動主義について説明がありました。なんですが、どうにも「構造」主義に聞こえてならない。文脈的にそんなはずはないのだけれど、なんべんも気になってしまう。
当然ですが、周りを見渡して私と同じように気になる人はいない(…はずです)。これはなぜか。構造主義に親しみがないからです。みんなフレーズとしては知っていても、普段出会う機会がほとんどないためにふと意識に上ってきたりなんてしません。いっぽうで我々はけっこうな頻度でこの言葉を耳にするため、こんな間違いをしちゃうのです。ただ、これは誰しもにあり得ることで、とにかく馴染みのある言葉に聞き間違っちゃうんですね。例えば和紙職人なら楮(こうぞ)主義みたいなヘンテコ聞き間違いを笑。
これはある意味で、自分が聞きたいものとかよく知っているものを聞くというカクテル・パーティー効果みたいな状況です(知らない人はコリン・チェリー先生の研究を調べてみてね → カクテルパーティー効果 - 一般社団法人日本経営心理士協会 (keiei-shinri.or.jp))。
フロイト的失言(Freudian Slip)という言葉があります。これは云わば「心の声がつい漏れちゃった」に近いのですが、ポイントは本人が気づいていないホンネまで表れているとする点です。というのも、つい言い違えたことに本心が潜んでいるらしいのです。思ってもみないことを口にしちゃったとき、ホントはそのことを深く考えているとする主張です。もちろんこれには反論もあるのですが、とりあえずそーゆーものとして措きます。これをふまえると、今回のは「フロイト的失聴」とモジれそうです。
目に留まる本
これは視覚の話にも敷衍できるとおもいます。「フロイト的失視」です(あんまり濫用したら各方面からお𠮟り受けそうだな…)。たとえばBOOKOFFの110円コーナーみたいなのを想像してもらえばよく分かるかと思うのですが、ジャンルの違う本が雑然と並んでいて規則性が無い。でも、不思議とお目当ての本はすぐ見つかるんですよね。それはきっと、自分の関心あるテーマや言い回しに反応しちゃうからですよね。
しかし、「フロイト的失視」をするのはここからです。『類人猿の藝術』『ワーク・ライフ・バランスを考える ー労基法を現場に照らして』『フィヨルドの神秘』みたいな本が並んでいたとします。このとき、私なら「お、人類学の本あったか?」みたいな勘違いをします。字面のミスリードにいともたやすく引っかかります。上の3冊の並びから、「人類学」「フィールドワーク」みたいなのをついくっつけちゃうためです。でも、フィールドワークに縁のない人ならこんな見間違いはしません。当たり前です。
人によってなんでこんな差が出るのか。これはものの見方とか興味の先がその人の生まれ育った環境や文化的背景によって形成されるためだと構造主義では考えられます。伏線回収ですニヤリ。結局自分が視聴嗅触味しているものは総じて特定の文脈のなかで分節化されたものにほかならないそうです。だから、講義中に聞き間違えたり、本屋で見間違えたりすることはすなわち自分なりの世界に生きていることを示唆しているわけですね。
「構造」という言葉こそなかなかデリケートなもので、「構成」とか「構築」とか類概念がめっちゃあるんですよね。それに、メタい話ですが「構造」という言葉を説明するとき自分の理解できている・相手の理解しやすいように説明するクセが人間にはあると思うので、その意味でも構造に囚われていますよね。まあ今回の文章にはあんまりカンケーがないので放置です。
こんなことを考えていると、朝のコマが終わってしまいました。あれ、先生今日の課題についてなんて言ってたっけ?なんも聞いてなかったわ。
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