半分メモみたいな文章なので、まとまりがありませんが許してクレメンス。今ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』を読んでいて、間もなく終わりというところなのですがどうも考えるべきことがありました。今日はそれをアイデアの種としてまとめておきます。
今回気になった箇所は以下です。気になる論点としては大きく2つ。
① 世界を間接的に捉えている我々について
② 一歩抜け出した視座で各文化を俯瞰することはできるのか
まずは『ソウル・ハンターズ』の該当箇所を引用しておきましょう。
ここで批判されているのは、以前にも言及したような文化相対主義の罠についてです(👇下記事も参照👇)。
文化相対主義は確かに自分に馴染みのある(特に西洋の)思想や文化ではなく全く別の場所に生きる人々のそれに対して、一見よく分からないとしても斥けるのではなく、同様・同等の価値があるのだとするものです。
しかし、いくら頑張ってみても「自分」「自文化」の視点から逃れることはできません(ウィラースレフの言葉を借りるならば「我々は世界を直接的には理解することができず、文化的表象という媒体をとおして間接的にのみ経験できるに過ぎない」)。そのため、本当の意味で相対化出来ているのかは分かり得ません。またこれに加え、そもそも自分が見ているものはホンモノの対象なのか、といった観測者のパラドックス的な問題も同時に孕んでいます。
この考え方に深みを付け加えるのは久保明教の言葉です。
ここでは対象(所与のもの)に対しての表象(後から付与するもの)という基本的な二分法を以て説明を進めていますが、要するに我々は対象をあるがままに、直接認識することができないということです(ただし、久保はこの後「世界への内在は、世界に外在する知識の正しさを阻害するノイズを生み出すものでも、知識の社会性を担保するフィルターを生み出すものでもない。」(p.14)とフォローを入れていますが)。
しかしさらに、シュッツの『現象学的社会学』を参照すると、視点の切り離しと俯瞰も可能になるのかも知れないと思わされます。この際、鍵になるのは「時間」です。少し長いですが飛ばし飛ばし読んでください。
ここで着目しておかねばならないのは、先ほど述べた「時間」のほかに「注意」や「反省」といったコトバです。何によって「注意」や「反省」にまなざされる対象物が決まるのかのかは判然としませんが、自分が主体として一歩引いた目線でまなざすことが原理的に不可能というわけでも無さげです。
そう考えると、外在性はそもそも内在性と排反なものではなく、内在を包含した外在というのもあり得るわけです(逆もまた然り)。ゆえに物事をどこから眺めるのか(特に外在or内在)が問われたとしても、一方が真・他方が偽であるといった二分が可能なわけではなく、その対象と自分との関係性に端を発した存在論と認識論とのハイブリッドな見方が必要なのかと思いました。とりあえずはこんなところです。また考えが深まれば加筆します。
引用文献
ウィラースレフ, R. 2000『ソウルハンターズ』奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳 亜紀書房. pp.301-302.
久保明教 2019『ブルーノ・ラトゥールの取説 ――アクターネットワーク論から存在様態探究へ』月曜社. pp.10-11.
シュッツ, A. 1980『現象学的社会学』森川眞規・浜日出夫訳 紀伊國屋書店. pp.14-15.