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人類学者に超越性はあるのか

 半分メモみたいな文章なので、まとまりがありませんが許してクレメンス。今ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』を読んでいて、間もなく終わりというところなのですがどうも考えるべきことがありました。今日はそれをアイデアの種としてまとめておきます。

 今回気になった箇所は以下です。気になる論点としては大きく2つ。

① 世界を間接的に捉えている我々について
② 一歩抜け出した視座で各文化を俯瞰することはできるのか

まずは『ソウル・ハンターズ』の該当箇所を引用しておきましょう。

 結局のところ、我々は世界を直接的には理解することができず、文化的表象という媒体をとおして間接的にのみ経験できるに過ぎないという想定は、人類学ではお決まりの常識である。そのため、異なる文化に属する人々にとっては、同じ現実であってもまったく異なった物事を意味することになる。例えば精霊は我々の現実の一部ではないかもしれないが、だからと言って世界を知覚する文化概念が我々と異なる現地の人々にとっては、精霊が現実でないということにはならない。
(中略)
 だが、まさにこの文化相対主義の主張には問題がある。すべての文化がそれ独自の構築された意味の枠組みに閉じ込められ、そうした枠組みはその文化に関連する基準でのみ測ることができると主張するということは、人類学者はある特定の文化の成員であるにもかかわらず、すべての文化についての文化=超越的な解釈を提示していることになる。これは論理的に矛盾している。相対主義的な言明を非相対主義的な一般的主張としておこなっているからである。それゆえに相対主義的立場は、あらゆる他者の生がその中で形作られているとされる文化の諸世界から、人類学者だけは一歩抜け出していることを必然的に含意する。なぜなら、「文化を超えた観察の地点によってのみ、[土着の] 理解を・・・ある独立した現実の・・・ひとつの可能な構築に過ぎないと見なすことができる」(Ingold 2000: 15)からである。…(以下略)

ウィラースレフ, R. 2000『ソウルハンターズ』
奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳 亜紀書房. pp.301-302.

 ここで批判されているのは、以前にも言及したような文化相対主義の罠についてです(👇下記事も参照👇)。

 文化相対主義は確かに自分に馴染みのある(特に西洋の)思想や文化ではなく全く別の場所に生きる人々のそれに対して、一見よく分からないとしても斥けるのではなく、同様・同等の価値があるのだとするものです。
 しかし、いくら頑張ってみても「自分」「自文化」の視点から逃れることはできません(ウィラースレフの言葉を借りるならば「我々は世界を直接的には理解することができず、文化的表象という媒体をとおして間接的にのみ経験できるに過ぎない」)。そのため、本当の意味で相対化出来ているのかは分かり得ません。またこれに加え、そもそも自分が見ているものはホンモノの対象なのか、といった観測者のパラドックス的な問題も同時に孕んでいます。

 この考え方に深みを付け加えるのは久保明教の言葉です。

 こうした、対象と表象、世界と言語が対応していることが正しく知ることだとする常識的な発想を「対応説」と呼ぶとしよう。それは科学や学問の価値を一般に保証してきたものでもある。
(中略)
 しかしながら、対応説には根本的な難点がある。急がずに考えればわかることだが、私たちは世界の外側になどいない。私たちはこの世界の内側にいて、他の存在から常に影響を受けている。対象に表象を与えようとする者自身が対象と何らかの仕方で関係しており、その関係のあり方が対象にいかなる表象が与えられるかを左右する。純粋に知識を探求しようとする科学者であっても、その個人的な興味関心や、生まれ落ちた地域の文化や、その活動に伴う社会的な活動からは逃れられない。外側から世界を知ることは、内側において世界を生きることに避けがたく結びついている。

久保明教 2019
『ブルーノ・ラトゥールの取説 ――アクターネットワーク論から存在様態探究へ』
月曜社. pp.10-11.

 ここでは対象(所与のもの)に対しての表象(後から付与するもの)という基本的な二分法を以て説明を進めていますが、要するに我々は対象をあるがままに、直接認識することができないということです(ただし、久保はこの後「世界への内在は、世界に外在する知識の正しさを阻害するノイズを生み出すものでも、知識の社会性を担保するフィルターを生み出すものでもない。」(p.14)とフォローを入れていますが)。

 しかしさらに、シュッツの『現象学的社会学』を参照すると、視点の切り離しと俯瞰も可能になるのかも知れないと思わされます。この際、鍵になるのは「時間」です。少し長いですが飛ばし飛ばし読んでください。

我々が持続の流れに埋没してただ単に生活しているときに出会うのは、たえまなく流れてゆく、未分化が融けあった経験のみである。それぞれの「今」は、先行する位相と本質的に異なっている。というのは、そのなかには、先行する位相が過去把持的変様という形で含まれているからである。だが、私は、持続の流れのなかでただ単に生活しているかぎり、このことに気づくことはない。なぜなら、私が過去把持的変様をとらえ、それによって先行する位相をとらえるのは、反省的注意という作用によってのみだからである。持続の流れのなかにあるのは、先行する位相の過去把持的変様を含みつつ、刻々流れ去っていく生のみである。そのときには、私は、フッサールが言うように、私の作用のなかで生きており、その生き生きとした志向性によって、「今」から新たな「今」へと運ばれてゆく。だが、こうした「今」とは、点のような瞬間だとか、持続の流れを二つに分ける切れ目だとか考えられてはならない。というのも、そのような人為的区分を持続のなかにもちこむためには、われわれは、流れそのもののにいなければならないからである。持続に埋没した観点からみるなら、「今」とは、点というよりむしろひとつの位相であり、そこではさまざまな位相が互いに相前後して融けあっているのである。持続の流れにおける生きられた経験(lived experience)は、一方向的、不可逆的に進行し、多様性から多様性へとたえまなく進んでゆく。そして、経験の各位相は、それが生きられているときには、明確な境界なしに次の位相に融け込んでゆく。だが、それらは、注意のまなざしにとらえられると、それぞれのありかた、つまりそれぞれの性質によって互いに区別されるものとなる。
 しかし、私が、反省によって注意を私の生き生きした経験に向けるときには、私はもはや純粋持続の流れのなかに身を置き、流れのなかでただ単に生きているのではない。そのときには、経験は、把握され、識別され、際立たせられ、互いに区別されたものとなる。持続の流れのなかで位相的に構成されていた経験は、いまや、すでに構成された経験として注意の対象になり、はじめ位相として構成されたものが、いまや、完成された経験として際立たせられる。その場合、この注意作用が、反省的な性質のものであるか、(単なる把握という形の)再生的な性質のものであるかは、問題ではない。というのも、注意作用ーーこれは意味の研究にとってきわめて重要なものであるのだがーーとは、過ぎ去った経験、すでに消滅した経験、つまり、もはや過去に属する経験を前提とするものであり、その注意が反省的なものであるか再生的なものであるかは問題とならないからである。
 したがって、われわれは、相互に区別なく融けあっている経過しつつある経験と、互いに区別されたすでに過ぎ去った過去の経験とをはっきりと区別しなければならない。

シュッツ, A. 1980『現象学的社会学』
森川眞規・浜日出夫訳 紀伊國屋書店. pp.14-15. 
(強調ナリカワによる)

 ここで着目しておかねばならないのは、先ほど述べた「時間」のほかに「注意」や「反省」といったコトバです。何によって「注意」や「反省」にまなざされる対象物が決まるのかのかは判然としませんが、自分が主体として一歩引いた目線でまなざすことが原理的に不可能というわけでも無さげです。
 そう考えると、外在性はそもそも内在性と排反なものではなく、内在を包含した外在というのもあり得るわけです(逆もまた然り)。ゆえに物事をどこから眺めるのか(特に外在or内在)が問われたとしても、一方が真・他方が偽であるといった二分が可能なわけではなく、その対象と自分との関係性に端を発した存在論と認識論とのハイブリッドな見方が必要なのかと思いました。とりあえずはこんなところです。また考えが深まれば加筆します。

引用文献
ウィラースレフ, R. 2000『ソウルハンターズ』奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳 亜紀書房. pp.301-302.
久保明教 2019『ブルーノ・ラトゥールの取説 ――アクターネットワーク論から存在様態探究へ』月曜社. pp.10-11.
シュッツ, A. 1980『現象学的社会学』森川眞規・浜日出夫訳 紀伊國屋書店. pp.14-15. 

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