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厚顔「無知」であること

 自分が教養深いと思うことは普段ない。ただし、とくべつ無教養であると思うことも、ない。歌舞伎は年に1.2度。読書量は人並か僅かに多いくらい。
 人類を教養レベルで輪切りにしたとき、だいたい真ん中のへんだろうという根拠のない憶測だけがある。少しがんばっても真ん中、少し怠けても真ん中。だからこそこれまで真摯に取り組む機会を逸してきた。またそれゆえ、ある種の恥じらいのようなものもふと頭をもたげたりする。「自分の浅学っぷりを明らかにしてしまうにちがいない」と専門家やマニアとの会話を避けたり、翻って知ったかぶりをしてしまったりということはしばしばある。

 しかしそれでは、自分は十分に文化人である、と臆面なく宣言できる人はどのくらいいるものだろうか。それも、正しく文化的である人とは(ダニング・クルーガーでいえば右端のほう)。きっと自分の領分でさえも見渡す限り比肩するもの無しといった強者は少ないであろうに、複数の分野にまたがって辣腕をふるうといった方はまれな例ではないかと思う。
 明らかに多分野に通じた博学才頴の主も本人からすればまだまだ、といった例は想像に難くない(だからこその文化人とも言えるだろう)。そうした領域はやはり、円熟していて格好が良い。

 無論一芸を極めるということは他芸を捨てるということと同義ではない。メインの芸に時間や能力のキャパを据える以上他に手を出しづらくなるということはあるが、芸の道は美しさをその地下茎として通底している。私は柔道と書道というわずか2例に過ぎないものの、このことを体感した。確かな技巧には正しい審美が供するのである。

 ただ、そうすると畢竟我々はひとつひとつ芸を積んでゆくしかないように思われる。読書の道、華の道、音楽の道…。どれも生中な気持ちでは到底登りきることなどできない。
 しかし、無数に存在する道の2,3でそれなりに(全人類の上位1%程度に)熟達していれば相応に審美の眼を具えていると見なされるのだから、いっそのことふんぞり返って一流ぶっておけば良いのかもしれない。『花の慶次』にて慶次は大家千利休に茶の講釈を垂れていたが、それは心臓に毛が生えているからというだけではなく、武の道を既に極めた一流の人間であったためであるとも捉えられるのかもしれない。

 何も知らぬならば逆にこれ幸いと前のめりになる。目の前にある異世界を繊細に感受し、そこに馴染んでみる。そうした心の姿勢こそが教養の正体と言えるのではないだろうか。

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