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《=映像×アート×哲学対話》#MyLife2024 =記録...そして、目撃せよ=を開催して 2024/02/25

お陰様で2/25《観る×聞く×話すの哲愕カフェ》企画、
《# MyLife 2024 = 記録...そして、目撃せよ=》を終えることができました。

雨の中、お越し頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。また、本イベントにご関心をお寄せ頂いたすべての方に深く感謝いたします。当日は至らない点もあったかと思いますが、この度の出会いを糧に精進して参ります。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

2/25の《=映像×アート×哲学対話》前半部分では当日のゲストでもある映像メディア作家:中嶋興氏の人間の普遍的な経験をテーマにした作品《MYLIFE》(Version:1977-1994)の上映と、Time~based Mediaに関する当方の論考と以下の問いについてご紹介させて頂きました。

1)記録(アーカイブ)とは何か?
2)記録は作品性を超えるのか?
3)それぞれの記録(MYLI FE)について

また、イベント後半では参加者全員で哲学カフェ(哲学対話)の形式で対話を行いました。(一般的に、哲学カフェは合意形成の場ではないのでディスカッションとは異なり結論を出したり求めるということはありません。こころの中のモヤモヤを”問い”として言葉にし参加者同士の考えを互いに聞きあうといったプロセスを通じて考えを深めあう対話のアクティビティです。)今回の対話では、「撮影における演出の介入(意図的な設定)」といった内容にも話題が広がりました。”元来、撮影の演出なきものなど存在しないのではないか?”といった視点を皮切りに、”(街の歴史などの)アーカイブ化を考えるときカメラが被写体となる対象を取捨選択した時点で既に演出が始まっているのではないか”、”だからこそ撮る側の覚悟が必要”....等、対話のリレーが静かに交わされていきました。

特に、”撮る側の覚悟”といった話題では、Time~based Media黎明期よりビデオカメラを携え現在もなお精力的に活動を続ける中嶋興氏の「誰も(代わりに)やってくれないんだから自分でやるしかないんだよ。とにかく撮る、何度でも撮る。怒られても何されても撮る。撮り続けるしかないんだから...」といった言葉が印象的でした。”涓滴岩を穿つ”ではありませんが撮り続けるその先に記録を超える何かが生まれるのかもしれません。

更に、話題は《撮る側と被写体との関係性》にもおよび、私の頭の中には40歳の若さでベトナムの地で地雷に散った写真家ロバート・キャパ(1913-1954)の言葉:”If your pictures aren’t good enough, you’re not close enough.”が浮かんでいました。この”close enough” は近寄らなければ理解し得ないといった《撮る側と被写体との関係性》を端的に表していますが、”灯台下暗し”の喩えの如く、近すぎるがゆえの気づけなさ、わかりあえなさといった関係性もあるのではないか...なんとなくそれは家族や身内との距離の在り方に似ているような気がします。

キャパがこの世を去って約30年後、グローバル化の加速化で『大きな物語 (Grand narratives )』を失った世界が小さな物語へとシフトし始めて以降、この《撮る側と被写体との関係性》の様相も少しづつ変化を遂げているように思えます。

現代社会は”close enough”が示す《撮る側と被写体の関係性》において層一層の熟慮が必要とされるポリコレの時代です。これまではごく当然とされていた表現や関係性に再検討を要する...といった場面が生じています。けれど、それらを刹那的に煩慮し狐疑するのではなく闡明に苦吟したその先にあるネクスト・ナラティブを探求し心待ちにしていくことのほうが自分にとってはチャレンジングな根の広げかたではないかと考えています。

その他、まだまだ興味深い対話が続きましたが、その中でも参加者の方々から語られたそれぞれの個のスモール・ナラティブはとても刺激的で自分自身の経験とも重なる点も多く励まされる思いがいたしました。今回このような貴重な時間を経験できたこと、大変嬉しく存じます。

重ね重ね、ご参加の皆様、お気を留めてくださった方々、中嶋興さん、主催サブテレニアンの赤井康弘さんに感謝いたします。
ありがとうございました!

藤本ナオ子 naok fujimoto


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