見出し画像

『蝉廻り』‐001


それは、玄関先にぽとっと落ちていた。

翠がかった白蒼色が昨晩降り続いた雨のしずくを纏い 雲の隙間から見え隠れする日の光に反射して、その透き通る身体を際立てているようにも その儚さを語っているようにも見える 。 樹木の根っこのように這う模様は 今まで何年もの間 暗闇を生き抜いてきた証であろうか…その蒼白さの中に しかりと浮かび上がっている。「それ」は、か細い足を懸命に動かしながら、アスファルトに張り付いた対羽を剥がそうともがいていた。やっと地上に誕生したばかりと言うところだろうか…空からの誕生の祝福が命取りになるなど考えもせず、ただただ暑く蒸しあがる空を飛ぶことだけを夢見て這い上がってきたのだろうに。。。

ただそれは ぽとっ と落ちていた。


自分には「それ」の運命を変える事が出来る。風を与えることも、ここで散らすことも出来る。
ただ偶然「それ」に気づいただけだというのに、その運命は この自分に委ねられたわけだ。
雨上がりの風が生暖かく感じた そんな夏の終わり。



僕は生まれ変わったばかりの蝉を見つけた。
水たまりの出来ている地面で必死に動こうとする蝉の横にしゃがみ、右手の人差し指をそっと蝉の前に差し出した。まだ脱皮して間もない羽根は 雨のしずくでぺたっと地べたにくっついていて、それを良いことにまた地面は蝉を離そうとはしなかった。ゆっくりと蝉の腹の部分に指を滑り込ませ引き上げると、地面は観念したかのようにあっさりと蝉の羽を手放した 。その瞬間 蝉の羽がポンと跳ね返りしずくを飛ばした。”もう大丈夫” 僕はそっと蝉にそう言って 近くにある樫の木へ歩き出した。晩夏とはいえ、時たま暑い日がある。昨日は水を含んだ重い空気が肌に張り付くような、べったりと暑い日だった。多分この蝉は夏の間優柔不断を重ねた末、地上に出ていったほとんどの仲間を追い 昨日の熱に運命をかけることを決断したのだろう。蝉はゆっくりと僕の指を進み手首までよじ登っていた。蝉の足がなんとも言えないくすぐったい感じがして口角が上がる。前庭に大きくそびえる樫の木には無数のセミの抜け殻がついていて、季節外れのクリスマスツリーに見えるほどだ。”お前の仲間はだいぶ前に飛び立っていったようだよ”。一雨ごとに涼しさが増すこの時期に 蝉の声は聞こえてこない。殻を残していった蝉たちは、今どこで何をしているのか。僕は苔で緑色になった樹の前に立った 。腕の真ん中あたりまでよじ登ってきた蝉をもう片方の手に乗せ替え幹へと手をかざす。 少しづつ少しづつ 木の方へと体を上げる蝉は 羽を伸ばし、その透き通った存在を実体化しているようにも見えた。最後の足が手から離れたとき、蝉が動きを止め ふぅーっと一息ついた気がした。この地上で生まれて間もないない蝉が、25年間生きている僕よりも既に多くを経験してしまったかのようなそぶりだった。日の光を目指して土を押し分けて地上に上が り、さらにその重い体を木の上まで運ぶ。自分のかたい殻を破り生まれ変わったのも束の間、雨粒が己の何十倍の重さになってのしかかってくる。固く冷たいアスファルトの上で絶体絶命まで味わいながら、蝉はまた この樹にしっかりとしがみ付きながら 更に上へ上へと上ってゆく。僅か一週間足らずという命で人生を謳歌しなければならない蝉が虚しいと思っていた僕は、蝉の何を分かっていたつもりなのだろうか。蝉は僕の口元のある高さにまで登り その歩みを止めた 。僕の目の前にベールのように白く透き通った羽根をかざし 微動だにしない。思考経路が働く間もなく 僕は気づいたら蝉の羽根にふっと息を吹きかけていた。少し熱っぽい吐息だったに違いない…すがすがしい風でも、鳥がつかまえる流れでもない、僕の吐息がこの蝉の第一の風となった。はっとした時に、自分は蝉の羽根を乾かそうとしていたのだと自分の行動と思考をつなげがる。”お前も大空で思う存分飛べるようにな”。そう言って僕は木に背を向けた。



ーーーーーーーーーーー

全話のリンクは下記からどうぞ。

こちらの短編対小説『RiNNe』がOrigin作品となっております。
『RiNNe』は関連作品です。お読み頂かなくとも、本編『蝉廻り』は単独でお読みいただけますが、お時間がありましたら是非お読みくださると、話が進むうえで物語がよく見えて来ると思います。
『RiNNe』‐碧編
『RiNNe』‐沙織編

●『蝉廻り』‐全40話リンクはこちらから。(一話2000字~3500字程度)

蝉廻り‐001:本記事
蝉廻り‐002
蝉廻り‐003
蝉廻り‐004
蝉廻り‐005
蝉廻り‐006
蝉廻り‐007
蝉廻り‐008
蝉廻り‐009
蝉廻り‐010
蝉廻り‐011
蝉廻り‐012
蝉廻り‐013
蝉廻り‐014
蝉廻り‐015
蝉廻り‐016
蝉廻り‐017
蝉廻り‐018
蝉廻り‐019
蝉廻り‐020
蝉廻り‐021
蝉廻り‐022
蝉廻り‐023
蝉廻り‐024
蝉廻り‐025
蝉廻り‐026
蝉廻り‐027
蝉廻り‐028
蝉廻り‐029
蝉廻り‐030
蝉廻り‐031
蝉廻り‐032
蝉廻り‐033
蝉廻り‐034
蝉廻り‐035
蝉廻り‐036
蝉廻り‐037
蝉廻り‐038
蝉廻り‐039
蝉廻り‐040 最終話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?