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『蝉廻り』‐015


久しぶりの心地よい眠りから覚めると、夢の尾を引くような仄かに温かみを帯びたアイボリーの壁があった。いつの間にか見慣れてしまった真っ新な白はそこにはもうなく、自分の好きな優しい色が瞳の中に飛び込んできて、自宅へ戻って来たのだと改めてじわじわと込みあげる嬉しさ。ふかふかの毛布の中に顔ごともぐりこむと、父のいつも買う洗剤の香りがする。あと5分…じっとその幸せをかみしめていようと、ゆっくりと目を瞑り 思い切り息を吸い込んだ。


雀の歌声が聞こえる…母の仏壇の前で膝を抱えて座り込むと、遺影の中の母がそっと「おやよう」と微笑んだ気がした。お線香を一本取り出すと、真ん中でポキッと割った。”ふふふ、少しずれちゃった。” 長さが不揃いな二本のお線香…マッチを取り出しスッと擦る。何とも言えない焦げた香りさえも、私が何度も思い出していた香り。お線香から登る煙が左側へスッと流れ、その行方を目で追う。まるで雲の様に流れてゆく煙の先に、きっちりと身支度をした父が立っていた。”おはよう。よく眠れ…ん?” 目を少しまるくして笑う。”ん?” ”いや、よく眠れた証拠だ うん。” クスクスと笑いながら右手で自分の右頬を指していた。慌てて母の遺影に写った自分の姿を見ると、右頬に枕の線がしっかりとついていた。”あっ!!” 写真の中の母もまた、口元を緩めてくすっと笑っている。自分自身に可笑しくなって、思わずぷっと笑い出す。そんな日常の一シーンが、とてつもなく嬉しかった。



”和風は今日は何をする予定なんだい?”出かけ際、玄関で靴を履く父は背を向けたまま問いかけた。実のところ、いきなりの退院に浮かれていた私は昨日、少し自分の制限を超えてしまったようだった。昨夜は少しだけ大きく胸が鼓動に揺れていたと自分でもきちんと悟っていた。”今日はゆっくり自分の部屋を満喫しようと思っているわ。” 父が私の返答に何を思ったのかは分からない…ただ、心配だけはさせたくない私の想いが 昨夜の鼓動を包み込んでくれた事だけを祈った。小さく そうかと呟いた父は靴ベラを戻す手を止める。 ”和風…今週末連れていきたいところがあるんだが。” 父はこちらを向く様子もなく私に背を向けたまま続けた。”少し…無理をさせてしまうかもしれない…。” 固まったままの父の背中が不安を一生懸命隠そうとしていた。そんな父の背中に向かう自分の右手を、左手がそっと引き留めた。”じゃあ、それまでに体力温存しておかなきゃね” 左手でぎゅっと右手首を掴んだまま、目一杯声を弾ませた。それを聞いて父は靴ベラをそっと壁にかけた。それからしばらく履いた靴先を眺めながら、ぽつんと ”…頼む。”と、一言 そう言った。


午前中の予定が終わり次第連絡をすると振り返りながらそう言うと玄関のドアに手を掛けた。”そうだ、前に病院に来てくれた三井君と、昨日和風が会った研究所の二人も一緒に行くことになったんだ。” 昨日の二人…” えっ、白沢さんも?!” ドクンと胸が鳴る。父に聞こえてはいないかと不安になるくらいに。慌てて ”篠崎さんも?”と付け加えると、口角をあげて あぁと父が頷いた。

父の背中を玄関が遮ると同時に耳が熱くなってきた。今週末…とっさに玄関にかけてある予定表を見上げる。今日は水曜日…あと3日で週末だ。無理をさせてしまうかもしれない。。。何処へ行くかも 何をするのかも分からないけれど、焦りと高鳴る気持ちが押し寄せる。白沢さんとまた会える…自分の胸をギュッと掴む。”お願い、もって。” 自分の心臓に強く強く願っていた。






”成瀬…”
真っ青な空と成瀬の間にぬっと柏が現れると、成瀬はふっと笑う。
”呼び出してすまないな”
”いや、ちょうどお前と話したいと思っていたから”
ベンチの背に手を掛けながら、柏が成瀬の隣に腰かけた。
”和風ちゃん…退院させたんだな”
ふぅっと一息空に放ち、ゆっくりと前かがみになった成瀬は あぁと苦笑いをしながら足元を急ぎ足ですぎる蟻を見ている。そんな成瀬を優しい目線で見つめながら、そっと柏が呟く。
”お前は…大丈夫か?”
蟻がベンチの足にぶつかって おろおろしながら行ったり来たりしているのを見て、成瀬はまたふっと笑みを浮かべる。
”正直…分からないんだ”
蟻はあっちじゃないこっちじゃないと方向を変えながら、ベンチの足を回るように行ってしまった。
”お前の道に、正解も不正解もないさ…”

成瀬の丸くなった背に汗ばんだ厚い手のひらを乗せながら、柏は成瀬の仰いでいた青空を見上げた。





”誠司のばかやろ!!!”バタンと玄関を閉めながら健司が冷たい空気へ走り出していった。”昨日のお返しだバーカ!!” 自分でも大人気ないとは思ったが、昨夜のお返しに今朝は健司の部屋の戸を叩かなかった。なんだか少しばかりスカッとした自分ににやけた。結局昨夜の時点で突き当たった疑問で、登山の準備も進まなかった。「登山」のレベルがわからなければ、準備するものだって書き出せない。今日は教授に行き先を聞いてみよう。。。朝食の食器を台所まで運ぶと、蛇口からぽたぽたと水が滴っていた。”ったく…ちゃんと閉めろよな” きゅっと蛇口を回すと、大きな雫が最後にぽとっと皿を打った。

研究所に続く校舎の道…何処からかはらりと銀杏の葉が飛んできた。まだ鮮やかな緑色をしている若い葉。風も吹いていないのに…それは完璧な扇を形どっている。葉っぱを手の中でくるりくるりと回転させながら歩いていると、ベンチを後にする教授を見つけた。”成瀬教授!!”呼び止めると、足を止めて僕の方を振り返る。軽く手をあげながら、おはようと声をかけてくれた。”週末、登山って、何処に行くんですか?” 挨拶もせずにいきなり聞いてしまった。よほど自分の中で気がかりだったのだろうと言った後になって気づく。”あっ、おはようございます…が、先ですね、すみません” 僕の苦笑いに一緒にのってくれた教授は ”あ、すまんすまん。場所を言っていなかったね。登山…というのか…ハイキング?か?” 教授も疑問形だ…目を合わせた僕らは、なんだか自分達自身が重なってしまって、ふいに可笑しくなって笑い出してしまった。”なんだか白沢君につられてしまったな。”ははっと笑う教授の口元から白い歯が顔を見せる。いつも微笑むだけの教授…そんな教授の初めてみたこんな笑顔は一瞬、若い頃の教授を僕にふと思い描かせた。”筑波山だよ。”笑いが収まったころにそう呟く。”筑波山って…茨城のですか?” 教授はコクリと頷いた。



研究所についた途端に僕はコンピュータの電源を押した。音を立てて起動する時間がとても長く感じ、知らぬ間に膝を揺らしていた。画面がパッと暗くなり読み込み数値棒がにょきにょきと伸びてゆく。70%、86%…画面が立ち上がったと同時に僕は「筑波山」と猛スピードで打ち込んだ。

出てきた画像を見て、ふっと力が抜けた。

 




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