見出し画像

『蝉廻り』‐008


ホームに降りても やはり学生の波は衰えず、僕は少し考えた。いつも乗る電車はもうホームを出てしまっていた。毎日誰かが自分より先に研究所にいてくれるだろうと思いながら僕はドア ノブに手をかけるが、結局いつも僕がカギを差し込んで一番乗りで入る羽目になっている。今日はこの波をやり過ごすか…くるっと方向を変え、ホームに建てられたカフェに入る。同じようなことを考えているのか、そこには大学生と思われる人たちが既に何人かいた。僕はカフェラテを頼んだ。ガラスケースの中に見える大きなチョコレートクッキーが妙においしそうだ。 そういえば結局 黒くなったトーストは二口しか口をつけられなかった。”あの。このクッキー もください。” 店員のおばさんは頷きも返事もせず、ただ茶色い紙袋を取り出し、一番手前のクッキーをその中に入れた。どう見ても僕側にあるクッキーのほうが大きかったのだが、不愛想なこんなおばさんにたてついても ”どれも同じだよ!”と言われるのが落ちだろう。幸いラ テを作ってくれているのは別の若めの店員さんで、このおばさんよりも絶対においしく淹れてくれるであろう。”スモール カフェラテです。” カウンターの隅に出された僕の珈琲。”ありがとうございます。” 一言残して 僕はカフェを出た。カフェといっても座る場所はなく 立ち飲みだ。ホームで電車を待つ人のほとんどはドア口辺りで立って待っているから、ベンチは案外空いていた。青いベンチの一番端に座ってみる。一生懸命に電車に乗り込もうとしている人たち を、珈琲片手に見ているのは案外楽しかった。電車に乗り込む前は皆 力の方向を電車内へと向け、入れろ入れろ!と押し込む。乗った瞬間にその方向は180度回転し、電車から外へと向けられ、入ってくるな!と押し出している。ドアが閉まる前は何故かドアの前に人が込み合っているのに、閉まった瞬間にドアの前の人の密度が低くなり どっと車両内のあちこちに散らばっていく。なんだかおもしろい人の心理だ。動き出す車両の中で汗をぬぐう中年のサラリーマンの姿を見て吹き出し笑いをしてしまった。そんな僕を見て反対端に座っていた老人が ” 毎日たいへんじゃのぉ。”とポロリと言った。

 

 

調子に乗って電車を3つもやり過ごしてしまった僕だったが、そのおかげで乗り込んだ電車は空いていた。カフェで買ったクッキーもすでに三日月のようになってしまっていた。動く電車の中で誰もいない朝の研究所を思った。 ”流石に誰か来てるだろう…、” そうであってほしい。折角電車を遅らせたのだから、この際開いたドアの向こうで誰かに”おはよう”と声を先にかけてもらいたいものだ。まさかなー。…数行間止まった…いやいや、誰かいるだろう!自分で自分のまさかを打ち消した僕だったが、何とも言えない不安が悶々と頭の上に渦を巻いていた 。目的駅に降りたって、駅の前に立つ。この際だ、時間をかけてやる!…そして、ゆっくりと大学へ歩き出す。今日も暑くなりそうな予感がする。あんなにも大きな波となっていた高校生の姿はもうどこにもない。その代わり重そうなバックパックを背負った学生がちらほら歩いている。僕と同じペースでゆったりと歩く人がほとんどだ。大学なんてそんなものだ。大学に入る前は 頭にハチマキなんて言う格好までして必死に勉強して、大学に入ったとたんに万々歳でお気楽生活に切り替わる。日本の大学システムは、入り口が狭いくせに出口は末広がりで両腕広げて世界に放たれている。高校生が名門大学を目指すのも理解できる。一度入ってしまえば どんな大学に行こうとも一大学としか見えないのにな。僕の大学は一応名門といわれている部類に入る。年末になると大学受験者が拝みに正門を触ってゆく。ただの古臭い門なのに…考えているうちに大学についてしまった。立ち止まって頭を掻く…誰かいるよな。。 。いつも通りに研究所の校舎に入る。横のドアを入ったところで チンと音が鳴る。お淑やかなエレベータ…の前に女性が立っている。後ろを向いているので、顔は見えないが篠崎ではないことは その立ち姿ですぐに分かった。篠崎じゃない…ほっとした自分がいた。あんな奴に二日続けて朝一番に出くわしたら不吉なことが起きる気がする。何故か急ぎ足でエレベータを通り過ぎ、角を曲がったところで ふわっといい匂いがした。あの女性に階段を進めるべきだったか…エレベータを待っていたら日が暮れる。そう考えながらも僕は階段の手すりに手をかけ一段一段上へと上っていった。一段上るたびに不安は重なっていく。知らない間に右手で鍵を握りしめていることに気づいたのは、研究所のドア前に立ってからだった。

 

ごくりと喉が鳴る。僕は何故こんなにも緊張しているのだろう。クイズ番組で布を被った景品を目の前にしているような気分だ。耳にピクリと電気が走り、聴覚を澄ます…こんな時にでさえ、思い切って事実確認をできずに まず何かしらの手がかりを探る自分にあきれ返る。”えい !!ここまで来たら!!”自分に考える暇を与えないように、一瞬でドアノブを引いた。

ドン!!!”いってぇー” 僕はそこまで疑っていたんだな…不安を胸に引いたドアは すんなりと開いた。鍵はかかってはいなかった。とはいえ勢い余って引いたばかりにドアが左つま先にガツンと当たった。自業自得なのだが、研究所仲間がとても憎い。”やっぱりみんな来てたのか。” 僕は仲間にいて欲しかったのか、そうでなかったのか。痛みをこらえながらドアを大きく開く。

そこには誰一人としていなかった。少しこもった空気が僕の横を通り過ぎ、外へと解放されてゆく。 今朝の道のりで超えてきた不安の数々の意味が一瞬で消えた。頭の中は一瞬白紙に戻され、そして次々とはてなマークが浮かびあがる。”…えっ???” なんで誰もいないんだ?” 今何がどうなっているのかがさっぱり分からない。自分のここまでの感情を何処から手を付けて整理すればよいのかも。少しの間その場に立ち続け、白紙だった僕の頭に今度は色々とこみあげてきた。 怒り不安、 安堵感に危機感…”何がどうなっているんだ…。” とっさに時計に目をやる…9時 56分。自分の腕に巻かれた時計と一致している。自分の机までどう足を運んだのかも分からない。ここ数日間の仲間同士での会話を必死に早送りで思い聞き返す。何か見落とした予定はあっただろうか、今日は何かのデータ収集日だっただろうか…ぐるぐると目まぐるしく記憶の回想が頭の中で始められていた。打って変わって、ここまで秩序を保って繰り広げられた心の空想棚にはぽっかりと穴が開いた気分だった。窓の外には青い空が映る。静けさの中で立つ僕の鞄からぽろっとクッキーのかけらが落っこちた。”やるせないなぁ…。” 口にした途端、自分に可笑しくなってしまった。鼻からフンっと笑いが出る。それに続いて胸の奥からクククと笑いが押し寄せる。拳を口に持っていくが こらえきれず、声を出してただただ笑っていた。

 

見られていた。

 

静かな部屋で響き渡る僕の笑い声…と もう一つ。

 

くすくすと笑う声が僕の笑いを後追いするように聞こえた。”えっ?!”ハッとしてドアの方へ振り向くと、彼女が優しい笑いを浮かべて立っていた。

 

 

彼女と僕の出会った時刻 : 午前9時:59分。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?