『蝉廻り』‐006
夕方になると病院内にもほっとする時間が訪れる。日が沈む前の空が渡り廊下の窓からパノラマでみえるこの時間。廊下を通る誰もが歩みを止め、上を見上げる。私にはこの場所以上の秘密の特等席がある。階段の上り下りも極力避けるようにと言われているけれど、私にとって屋上への階段は、自分に必要不可欠なもの…”極力”の枠から決して外せないものだったりする。周りが心配する程、自分の中では発作前とあまり変わったことはなく、今まで通りの事を今までのようにしているだけなのに…それでもなお、ほんの少し罪悪感を感じてしまうのはどうしてなのだろう。
屋上に出るための扉は白く重い両開きになっている。私は右側の扉にいつも鍵がかかっていることを知っていた。左側の扉のノブを少しづつ押す…今日の私の空を確かめに。
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思わず ”あっ…”と小さく声が漏れた。私は身動きが取れなくなった。
下の遊歩道から聞こえる学生の笑い声。開かれたドアから手を離すことも出来ずに、目の前に映し出された光景に私は、一瞬息をするのを忘れた。雨が去った後の幕開けを思わせるような空の世界…様々な光が雲の合間から射す筋光となって町中に降り注ぐ。ありとあらゆる物にその光を散りばめ反射し、まあるく灯る光の玉を放つ…私の時間が止まった。毎日同じ場所で見上げる空なのに、一度たりとも同じ姿を見せることはない。雲の形、空の色、空気の匂い、 風の温度から吹き付ける強さまで…全てが全て この一瞬の為だけにここにあってくれている。私の髪を押し流す風は、同時に上空の雲を運んでいく。思い切りこの景色を自分の中に取り込んで行くと、私も雲のように形を変えることが出来る気がした。私の行きたい場所に、この空なら連れて行ってくれるような。夏の終わりを形どるあの雲のように、何処かへ流れていけるのだろうか。”今日は一段と綺麗…。”
27年目の夏の終わり…こんな素敵な空に 私の居場所があるような気がして、ぽろっと涙が流れた。
(end music)
屋上の柵にもたれて どれくらい時間が経ったのだろう。変わりめくる空が、瞬きするのも惜しいほどに綺麗すぎて…。反対側の空は紺色のベールを纏い始めていた。最後に一度思い切り深呼吸をして、白く重いドアに手をかけた。
蝉はいなくなっていた。
病室に足を入れると、私の唯一の窓の舞台が 夜の景色を映し出していた。周りの建物や看板から放たれる光が煌々としている。下にある交差点の信号が変わるのか、黄色い光がちかちか と窓に反射する。その黄色い光に蝉の影は映し出されてはいなかった。ハッとして、窓に近づくと…蝉はもう居なくなっていた。網戸にそっと指を這わせてみると、指に網戸のナイロ ンの網目が冷たく感じられるだけだった。ちゃんと飛び立てたの?今日の空を選んだ蝉は必ず明日に向かって羽ばたけるはず…心の奥で 蝉を無理に飛ばしたい衝動を認めた自分に光が照らされた気がした。”今日の空は最高だったよ” そう呟いてそっと窓を閉めた。
ぱたぱたと近づく足跡が はたっと止まったと同時に、ゆめさんがドアからひょこっと顔を出 した。少し上向き加減に傾いた彼女の顔には、いたずらっ子の様な笑顔が浮かんでいた。”へへ へーー”と言いながら後ろに手を回したまま一歩ずつ ゆっくりと私の方へ歩む。私から視線を逸らすことなく真っすぐに。”どうしたの?”私のその一言に、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに にんまりと笑う。”はい!!” 目の前に差し出された彼女の右手には 小さなボトルが乗っていた。”休憩時間に ちょこっと行って買ってきちゃった。” 照れ笑いする彼女から それを受け取ってみる。”ボディーソープ…?!” ふふふーんと鼻をつんと上に向け笑うゆめさんを見て、これが何なのかすぐに気づかない訳はなかった。”えっ?私に?” 口元をつぐんで小さく頷く彼女。その目に映し出されている今の自分の姿は真っ赤だろうか。
素直に嬉しかった。心の底から暖かいものが湧き出る感覚が とても優しかった。”ありがとう …” 真っ赤なうえに 涙目になってしまったら恥ずかしい、自分の意志ではどうにも操れない涙腺を必死に引き締めようとしていた。”私が使っているものとおんなじなの。わかちゃんは凛とした清楚な香りのほうが似合うかなとも思ったんだけど、今日褒めてもらったから同じものにしちゃった。なんだか、良いことが起こりそうな予感がしない?いい匂い、二人でいっぱい皆に振りまいていこうじゃない!” ゆめさんは 右目でウィンクをして見せた。可愛らしいとは程遠い私なのに…自分の心に花が一輪咲いた気分だった。そんな暖かな夏の夜。私は優しさの中で眠りについた。
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