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『蝉廻り』‐010


病院の外へつながる自動ドア。それはとても不思議なドアで マスクをして入ってくる人がいれば、笑って出ていく人もいる。ただの一枚のガラスだというのに、それは入口でも出口でもある。数か月前の私は担架に乗って ER専用の裏口から入ってきた。今日の私は胸を張ってこのドアを出口として足を踏み出せる。目の前には上から眺めているだけだった交差点が広がっていて、青信号の時のカッコウの音がすぐそこで響いている。何でもないような日常が、今の私にとって全て新鮮で素晴らしいものに見えてくる。ううん、新鮮なのだ。すくんでしまうと思われた私の足は思いのほか軽快に進む。あと10メートル、5メートル…2メートル…私の重みでセンサーが作動し魔法のドアが両端へと開き始める。”ゼロ!!!”


(startイメージ曲:Koi-ysl) 

私は思い切り上を向いた。夏と秋の匂いが半分に混ざった風を全身で感じて 鳥肌が立った。 寒かったわけでも、怖かったわけでもない。魔法の出口をくぐり、解放感と自由が詰まった外の世界に期待で胸がいっぱいになったこの瞬間を…ずっと忘れることはないだろう。それは感動に似た鳥肌だった。

”ママーお腹すいちゃった…。” 目の前を行く小さな女の子が母親にそう呟いた。一つ深呼吸をして”私もなんだかお腹すいちゃったなー。” と私もくすっと呟いた。

 

何処までも続くトンネルのように感じた数か月間だったけれど、思いのほか周りはあまり変わっていなかった。公園を抜けた道路工事は着々と進んでいると思われるものの、未だ黄色い立ち入り禁止の看板がドンと立っている。テナント募集の張り紙は、角のお店の前に少し黄ばんで張り出されたままだった。移り変わったものもある。フラワーショップに並ぶ花々の中にひまわりや百合は見受けられない。それらに代わって優しめのダリアやケイトウ、クレマチスが 私が主役よとその姿を歩く人々に見せびらかしている。ショーウィンドウで語るマネキンは様々な秋色の長袖を着こなし、 カフェの前に置かれた黒板には、かわいいイラストと共にパンプキンスパイス、ヘーゼルナッツ・メープル、チェスナッツ・ソルトと新作が書かれている。鼻歌がついて出てきそうな気分になる。トンネルはそんなに長くなかったのかもしれない 。”あれ?”ふと足が止まる…こんなお店なかったな。カフェの数件先に新しいお店が出来てい た。”何のお店だろう” そぉーっとガラス越しに店内を覗く。私の目に飛び込んできたボードの文字が私を店内へと引き込んだ。


アイスクリームショップだった。メニューボードの横に”本日のアイス:グレープフルーツソルベ” と書いてある。”夏だ” 見逃してしまった夏がそこにあった。変わってしまったものは少なかったけれど、見逃してしまったものは多くあった。四分の一…一年の1/4がぽっかり抜けた私は、夏をどこかで欲しがっていたのかもしれない。”グレープフルーツソルベを一つお願いします。” 店員さんはにっこり笑うと、今週最後のフレーバーであることを教えてくれた。 スクープされたソルベはまぁーるく形どられ、すぽっとコーンの中に納まった。”どうぞ”  氷の結晶が砕かれてなめらな艶を出す黄色は夏そのものだった。甘酸っぱい香りが漂う。”ありが とうございます。”お金を払い終えてお店を出た。暑さの中で汗をかくソルベ…私の中の穴が夏味のソルベで埋まる…そんな気がした。

   
(Stopイメージ曲)

 

   

 

 

迎えにこれなかった父だったが、昨夜帰宅前に父の大学に顔を出すと約束をした。父は昔から 私を特別扱いはしない。出来ることは自分でやってみなさいと。甘やかすだけが愛ではない… 私を信じてくれているからこそ、”見守る”ことをしてくれる。私に娘が出来たら…多分彼女の踏み出す一歩一歩を心配しながら隣で張り付くように見ているのに。心臓が弱かったらなおさらで、きっと何も自由を与えないくらいに離せないだろう。”本当にすごいな お父さんは…。” 私は父のいる大学へと歩き出した。

 

大学は病院から程遠くないところにあった。歴史ある建物に生い茂る緑、木陰があちこちにできている。この辺りの大学ではキャンパスも広いほうで、いたるところにベンチが置かれている。本をゆったりと読む人、恥ずかしながら肩を寄せ合い座る恋人達、鞄に寄りかかりながら眠る人、思い切り笑いながら大声で話すグループ…様々な学生のそれぞれの学生生活を 一 つ一つあるベンチがしっかりと支えている。近場といっても こんなに歩いたのは久しぶりで 、少し胸に疲れを感じた私は、東側に面した日の当たるベンチを選び座ることにした。さわさわと揺らぐ木々の葉をじっと見つめながら、こうして此処にいる事が未だに夢のように思えていた。どうして今日だったんだろう…日々繰り返される検査…昨日もその前も、そして今日も…自分に新たに感じられる変化は全くもって無かったのに。脳裏にちらつく 「リミット」 が揺れる葉っぱのようにサワサワと音を立てていた。
”あれ?!?和風ちゃんじゃない?” 私の視界にググっと顔を入れてきたのは、父の同僚の柏先生であった。長さがまちまちな無精髭に、うねりにうねったボサボサ頭。はちきれんばかりの頬は、もっこりと上に持ち上げられ美味しそうなリンゴのように見える。”お久しぶりです 柏先生。”たまに家に来ては父と夜遅くまでお酒を交わす柏先生は私もよく知っている。外見にはこれっぽっちも気を遣わないのに、人の動きや気持ちをさりげなく汲んでくれる…優しさの塊でできているような人だ。にっこり笑うと細い目が更に細くなり一本の線となってしまう。”いやぁ〜本当に 久しぶりだね!今日も暑くて参っちゃうよ!” 滴る汗をよれよれのハンカチで拭いながら、ふぅっと息をつく。”いかがですか?” 少し右側によりながら隣を勧めると 、よっこいしょと言って先生は腰を下ろした。”体調はどう?”優しく先生は聞いた。”ええ、ここ数週間は落ち着いて います。それで実は今さっき退院したばかりなんです。”
”そうか…そうしたのか。”
真っすぐと前を向いた顔を少し上にあげながら先生は言った。それは私に対しての言葉ではないことは すぐに分かった。そこにはいない父へ向けて放たれたような気がした。父と先生は先輩後輩の中だが、なんでも話せる関係にあるようだった。理解しあえる相手というか、何も押し付け合わずに答えを求めずに…先生が先生で、父が父であることが心地よいというような関係なのかもしれなかった。”成瀬に会いに来たの?” どこか遠くを見ていた顔をパッと私に戻して聞いた。”はい。家に帰る前に父の所に寄る約束をしていて。” 少し間をおいて考えてから先生は口を開いた。”和風ちゃん…わかちゃんの入院中に成瀬の家に何度かお邪魔しちゃったんだけどね…俺、お酒の空き瓶を案外散らかしていたかもしれないんだよね…” ぽかんとしてしま った。そんな私を見て 先生はまた目を一本の線にしていった。 ”家、ごちゃごちゃになってたらごめんね!” そういう先生がとても可愛く見えて笑ってしまった。柏先生は時計に目をやるなり立ち上がり、また近くに家に寄るねと言ってくれた。”じゃあお片付け代にケーキを持ってきてくださいね!”  ”じゃあ丸ごとケーキを買っていかなきゃだな!!”  丸ごとケーキ…ホールケーキ...この先生は本当に憎めないかわいらしさを持ち合わせた人だ。柏先生は父がこの時間は院の研究をしていると思う…と、部屋への道順を教えてくれた後に 汗をかきかき大きく手を振って光の中に歩いて行った。”私も行くかな。” 両足の太ももの裏に少し張り付いたスカートをぱんぱんと叩き、私も父のいる部屋へまた足を運び始めた。



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