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『蝉廻り』‐011


古い校舎のこのドアだったかな。大学に設置されている部屋を何度か訪ねたことはあったが、 大学院の研究所は初めてだった。研究所に顔を出すのは少しばかり躊躇ったけれど、父に無事退院したことを伝えるだけだしと思い行ってみることにした。父に会えなければ大学のオフィスに行ってみれば良いだけだし…。思ったよりも古い建物だった。歴史があるというよりかは、少し忘れられたような感じのする入り口。そして、このエレベータ…。年代を感じる白く濁った緑色の開きドア。ぼこぼこになった灰皿がその前に置かれていて、ちょこんと吸い殻が数個乗っている。押しボタンが妙に低い位置にあって、階を知らせるランプの上には玄関先につけられているような鐘の鳴るベルがあらわになっている。上を向いた矢印を押すと、もう既に押されているようにへこんでいて、なかなか光らない。すべての力を人差し指の一点に集めてギューッと押してみる。指の第一関節がクリっと曲がるほどに押したところでピカッとボタ ンが光だした。”丸ごとケーキ…。”思い出し笑いで顔がにやけた。チン!!エレベータが鳴った 。その可愛い音に更に顔がにやけてしまう。後ろから誰かがこちらに歩く足音がしたけれど、こんなにやけた姿を見られては変に思われるに違いない。思わず顔を下に向けた。


長いなぁ…待つ事に慣れている私でもそう思うほどにエレベータはゆっくりと動いている。先ほどのベルの音からすでに一分は経っている。チン!やっと二度目の音が鳴る。エレベータの上にある階表を確認すると現在 2階にエレベータはいるようだ。ごぉーっとベルトが動く音がするのでこの瞬間にもエレベータは降りてきているのだと分かる。先を急いでいるわけでもないし、ゆっくり待とう。父の言っていた 「巡り合うもの探し」は急ぎ足では見逃してしまうものもあるかもしれない。チン!!なったと同時に目の前の扉が開きだす…のに、エレベータの中のボックスはまだ降り切っていなかった。中のボックスの地面がのろのろとドアの地面に その位置を合わせていく。おかしくなってしまった。病院を出てからここに来るまでの短い間に何度吹き出し笑いをしただろうか…本当に外の世界は笑いであふれている。エレベー タには女性が一人、大きなファイルカートと共に乗っていた。”おっりまーす!!” ドアに背を向けている女性は大きな声を出してそう言い、ガラガラと車輪のついたカートを引きずりながら後ずさりするように降りてきた。私に気づくなり、にかっと笑って”声出して良かった!” と言った。ドアのほうに向かって進む彼女。 ”ドア、開けましょうか?”と声をかける。”あぁー ー大丈夫大丈夫!!全ったく、男どもが使えないから女が強くなんのよねー!!” ぶつぶつ言いながら彼女はドアを開け、片足でドアを蹴りながら一気にカートを引っ張り出した。エネルギッシュな人…エレベータと言い あの女性といい…ここで父はどんな風に毎日を笑って過ごしているのだろう。ドアが閉まる前にエレベータに乗り込む。行き先、古い校舎 3階。

 





研究所のドアは大きく開かれていた。

   

 

   

 

 

袖がたくし上げられた淡い青のシャツ

そこから真っすぐと伸びる腕の先に持たれた鞄

少し曲がった襟足から すっと伸びる首筋

遠く窓の外を見つめるスラっと切れた目は、どこまでも どこまでも先を追っている。

少し開かれた口元 、少し薄めの唇  

少し落とされた肩のラインは、 今にも窓の外へと吸い込まれてしまいそうに見える。


その空間だけすがすがしかった。外の蒸し暑さも、もやもやとした空気の動きも無く。さらっとした髪が扇風機の風で揺れ、顎のラインを撫でるように通ってゆく。


美しかった。そこに立つ彼も、彼が立つその部屋も。どこかで迷ってしまったかのように遠くの空をただ見つめる彼の横顔は、外に吸い込まれそうで…静止する周りのものから 音一つない部屋の静けさまで、全てが織りなして一つの美しい絵になっていた。

ふっと床に目線を落とし、また すぅーっと顔を上に上げる。一度閉じられた唇がかすかに開き、私はその唇から視線を逸らすことが出来なくなった。

”やるせないなぁ。”
ふぅーっと唇から呟かれた言葉には 色がついているようだった。少し低めの声が何故かじわっと心にしみこんで、 目の前の絵から目が離せなかった自分の体に徐々に自分の意識が戻ってゆく。やるせなかったのかぁ…あの遠い目は ”やるせなさ”だったのかぁ…。そう分かった途端くすぐったくなった。

 

彼の口元にふっと笑みがこぼれる。クスっと鼻で笑い、それに続いてこらえきれないほどの笑いが漏れている。細く綺麗な手と口元の合間にこぼれる笑みは、真っすぐに無邪気な笑顔だっ た。その笑顔に私もつられて、くすぐったさが溢れだした。

 

気づかれた。

”えっ?!” ハッとして振り向いた彼が私を真っすぐに見つめていた。笑った顔を戻す間もないくらいの 一瞬の出来事だった。



少し大きめに見開かれた彼の瞳に私が初めて映った瞬間:木漏れ日の射す日の午前10時 1分前。

 

 

成瀬 和風  (なるせ わか) 27歳

白沢 誠司  (しらさわ せいじ) 25歳





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