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『蝉廻り』‐007


チチチっと鳴る目覚ましの音が妙に大きく感じられた朝。片目をそっと開けてみると強い光が差し込んだ。眠気が大半を占める僕の頭の中で、開ける方の目を間違えたと指令が下る。反射的に開けた右目を閉じ、今度は左目をうっすら開けてみると、飲みかけのコーヒーカップ が置かれた机が見えた。どさっと置かれた資料の束が所々ではみ出している。かけ布団を引っ張り被せながら光から身を隠そうとすると、ふわふわと空気中の埃が舞う…朝の光は僕の闇を良くもまぁ映し出してくれたもんだ。身動きせずにじっとしていると、目覚ましの音が雀の鳴き声に聞こえて心地よい…が、やはり起きなければならないか。僕はむくっと起き上がり 、目覚ましへと手を伸ばす。
” 朝だ…。” 今週末は丁寧に掃除でもするか。そう決めた。

 

洗面所のコップに突っ込まれた歯磨き粉のチューブがうねっている。手に取ると掴みにくい。 自分でやったことなのだが、なぜか妙に不快に感じる。出来るだけ真っすぐになるように両手で懸命に伸ばしてみるが、途中からは どうでもよくなってしまった。出せればいっか。青、赤、白の線が歯ブラシに絞り出されたが、青い線が極端に細い…。”あ゛っ” やっぱりちゃんと伸ばすんだった。こんな時に、僕が僕であることを再確認させられる。

   

 

 

自分の朝ご飯はかなり軽い。トースト一枚にバターを塗って、冷えた牛乳と共に頂く。それで良い。旨い食パンが一番だ。外はこんがりサクッと、中はもちもちで、ちぎろうとすると生地が少し伸びる感じが最高だ。なのに…何故なんだ。今朝のトーストは いつもより黒い…。恐る恐るトースターの設定に目をやると、ダイヤルが8になっていた。”まじですか…。” どこでどうダイヤルが周り回ってしまったのか分からない。食べられないほど焦げてはいないのだが、 黒い。結局塗り入れたバターに黒い粒粒が混ざる結果になったわけだが、そのさまに やはりがっかりしてしまった自分がいたのは言うまでもない。

 

バタバタと階段を駆け下りてくる足音。”おい、健司!!朝からどたどた音立てんな!!”制服に片腕を通しながら、弟が慌てて台所にはいって来るや否や、冷蔵庫を全開した。”誠司なんで 俺の事起こしてくれないんだよぉ?!” 僕に背を向けたまま オレンジジュースをパック口づけでグビッといっている…。”お、お前 ちゃんとコップにつげよ!!” ったく聞いちゃいない。僕と7つ年の離れた健司とはこの家で二人暮らしをしている。昨年両親のいるカナダから やはり日本の高校に行きたいと単身帰国し、一年学年を下げて 現在高校最後の年を謳歌 している。毎日が嵐のような日々だが、こいつとの生活は案外楽しいものである。両親の転勤が決まった時に僕はすでに大学に入っていた。ここに留まり一人暮らしをすることに迷いはなかった。母親のありがたみを噛み締めた日々を重ね、今までの自分の在り方に少しづつ修正 を加え、卒業までには自分らしい生活を手に入れた。健司の帰国には多少かき乱された事は確かだが、誰かが同じ場所に帰ってくるという安堵感に似たものは やはり良いものだ。”誠司! !俺今日も遅くなるわ!”そういいながら玄関先で靴を引きずる音を立てる。つま先をトントンと地面に叩きながら ”やっべ!!”といってドアに手をガチャっとかける。”また明日寝坊するんじゃないの?” ぱさぱさしたパンを喉の奥に流し込みながら言う。ふとバタバタが止まったかと思うと、玄関先からひょっこり健司が顔をのぞかせて 恨めしそうに僕を見つめている。” だーかーら!!誠司が起こしてくれって。じゃ俺部活遅れるから急ぐわ!!”…そう言い残し嵐は去っていった。


健司も僕も母さん似で外見は似ているが、中身は似ても似つかない。健司は陽気でいつも太陽を背負っているような いわば人気者タイプなやつである。表情がコロコロと変わってみていて飽きない父さんと、いつも冷静で満月の夜の静けさの様な母さん…僕たちは見事に 二人の内面遺伝子を別々に受け取ったかのようだった。似ているとはいえ、あいつの笑顔には敵わない。背は少しばかり僕より低いが、わずか数センチの差で僕が兄の威厳を保っている程度だ。編入早々バスケ部のレギュラーを勝ち取り、秋の大会に向け今は朝練付けらしい。”僕のほうがバスケ上手いのに…。” 本当であった。高校時代こう見えて運動神経は良かった。でも 、どこかで健司に上を越されていくような感じがするのは、あいつの無邪気な笑顔のせいだけなのだろうか。”あっ、遅れる。” 時計を見上げて、僕の一日が始まる。今日の帰りには立てる歯磨き粉を買って来よう…こういうところは父さんの遺伝子なのだろうかとふと思った朝だった 。

 

   

 

 

玄関のドアを開けると すがすがしい風が吹きつけた。秋の匂いがする。肌寒いとまでは言えないものの、冷たさとパリッとした切れのある感じだ。まだ肌に張り付くような夏が残る でもどこかさっぱりとした風。一雨ごとに季節が変わる…昔の人が先に気づいただけで、この僕にだって それくらい感じることはできる。たまに自分が大昔に生まれてきていれば、偉大な人間になっていたのではないかと思うことがある。僕が知る名言は年を重ねるごとに増えてゆく。どれもこれも、昔の人が残したものと被る感情…結局人は皆、ある時点であることに気づくということだろう。僕がまだ知らない名言は後どれくらいあるのだろうか。

”いっけね、電車に遅れる!” 左手にした時計に目をやりながら、少し歩調を早めにとることにした。ほんの数分の遅れだというのに、駅前につくと普段よりも多くの人が行き交っていた 。ほとんどが高校生だ。学ランからセーラー服に、ネクタイをしたブレザーの若者たちも沢山 いる。自転車で横を勢いよく過ぎてゆく者もいれば、携帯電話をじっと見つめながら突っ立っている者もいる。”通学ラッシュかよ…” 健司の様なやつが多ければ こんな一斉に若者が 集まることもなかろうに…。僕の前を 朝っぱらから手を繋いで階段を上る若いカップル。” 昨日メールしながらねちゃったでしょー!!” ”ごめんごめん、まじで極限状態だった。” 笑いがあふれる。若いなー。自分にもこんな時期が…なかった。あー、確かになかったな。僕も健司みたいに自分の放つボールが音を立てずにネットを揺らすことにだけに微笑んでいた気がする 。”誠司と一緒にすんなよ!!”一瞬健司の声が聞こえた気がした。あいつの高校生活はどーなっているんだか、少しばかり興味がわいた。




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