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誰もわかってくれない

生きづらさを抱える人の多くが共通して、持っているであろう、感覚、は幾つもあるのですが、

「誰もわかってくれない」は、その代表ではないか、と思っています。

この感覚は、生きづらさを抱えていない人であっても、かつて感じたことがあるのではないか、と思っています。

思春期に、心は大人と子供の狭間にあり、身体は急激に成長します。

そんな時期に、「誰もわかってくれない」と感じたことがある人は多いのではないか、と思います。

身体と心の成長するスピードには個人差がありますし、生育環境も一人ひとり違いますから、

誰もかれも一様に当てはまることではありませんが、

揺れる思春期に、「誰もわかってくれない」という気持ちになった人は多いだろう、と思うのです。


一言で言ってしまえば、心が成熟する際のアンバランス、と表すことが出来ると思いますが、

もう少し分解してみると、主に二つの要素が、
「誰もわかってくれない」の主成分だと思っています。

一つ目の要素は、
自己、が確立していない、ことです。

自己とは、心の中の、「確かな、自分、という意識」です。

赤ん坊に、自己、はまだありません。
親から、肯定的に受け容れられ、存在を認められ、尊重される中で、

自分は存在するだけで価値がある、という、自分の存在に対する安心感が育まれます。

愛情たっぷりの眼差しを向けられ、
抱っこして欲しい時に抱っこされ、
お腹が空いたら母乳を与えられ、
オムツが濡れたら気持ちのいい新しいオムツを充てがわれる中で、

自分は存在するだけで価値が有る、という意識は育まれます。

その自分に対する安心感が、自己、の芽生えです。

芽生えた、自己、の成長は緩やかです。
まだまだ肯定的な受け容れは必要です。

はいはい、していたものが、やがて自分の脚で立ち上がり、おぼつかない足取りでヨチヨチ歩きをする時期を迎えます。

まだ言葉らしい言葉を発することが出来ない、この時期にも、
ヨチヨチ歩くときに、周りの大人達から、「あんよが上手」と褒められると、赤ん坊は明らかに喜び、尻もちをついても、バタッと倒れても、何度と無く立ち上がり、満面の笑みでヨチヨチ歩きを披露します。

褒められる、という最上級の肯定的な受け容れによって、赤ん坊は自分の存在に価値を感じ、

その事によって、芽生えた自己は少しづつゆっくりと育ちます。

自己が成長するには、肯定的な受け容れが無くてはならないのです。

自己が確立していない幼い子供は、自分ひとりでは、自分に対する安心感は不足しますが、周りの承認や支援や賞賛によって、補填されます。


もう一つの要素は、
自分と他人を分ける感情の境界線が曖昧であること、です。

赤ん坊には、感情の境界線は無く、母親と赤ん坊は心理的には混ざり合って一体です。

感情の境界線が明確になって初めて、自分は自分、母親は母親、という意識が生まれますが、

その垣根が無いからこそ、母子一体の密着、蜜月の季節を過ごすことで、赤ん坊は、安心感に抱かれる事が出来ます。


説明の為に、二つの要素、としましたが、
実際は、自己、の外郭線が、感情の境界線、です。

バレーボールの中の空気が、自己、でボールの表皮が、感情の境界線、という事です。

ですので、自己、は充分に育っているが、感情の境界線が曖昧、ということも、
自己、は未成熟だが、感情の境界線、は明確に引かれている、
といった心の状態は有り得ません。

自己が育っていないなら、感情の境界線は曖昧なのです。


自己、の成長は緩やかです。
思春期は、その心の成長と、身体の成長のバランスが危うくなる時期です。

第二次性徴期を迎えた身体は、急速に成長し、心は、自己、の確立にはまだ遠い、という状態は、むしろ思春期のスタンダードかも知れません。

先に触れた様に、未熟な、自己、は周りの承認や支援、賞賛といった受け容れを欲します。

それなのに、身体はどんどん大人に近づいて行く訳ですから、周りは、赤ん坊の時の様に「あんよは上手」とは言ってくれません。

幼い、自己、は受け容れを求めますし、周りは受け容れて当然と感じてしまい、結果、
「誰もわかってくれない」という心境になります。

未熟な、自己、の外郭線は曖昧な、感情の境界線、です。

見た目は大人に近くても、自分と他人の区別は心理的に明確にはなっていません。

自分が感じる様に、他者が感じないこと、自分が求めることに、他者が応えないことに、苛立つのは当然です。

そして、「誰もわかってくれない」という想いに執らわれます。


生きづらい人は、本人に自覚が有るか無いかは別にして、幼い頃に充分な受け容れを経験しなかった人がほとんどです。

心が成長の歩みを止めてしまったことが、生きづらさそのもの、と言って良い、と思っています。

幼少期は無条件に受け容れられる、人生唯一の陽だまりの様な特別な季節です。

思春期は心と身体のアンバランスに揺れる嵐の様な特別な季節です。

幼少期のつまづきは、つまづいたその人には一切責任はありません。

しかし、その人は、陽だまりの様な暖かな季節を奪われ、

嵐の様な揺れ動く季節に、ずっと立ちつくしています。

思春期は、甘酸っぱくも激しい、短く特別な季節ですし、

また、短くなければ、その激しさは、苦しみになってしまいます。

生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放したい、
と思ったなら、

少し、心のこと、を知ることと、
自分と向き合うこと、が必要ですが、

長く続いた嵐は、

あたたかな陽光に変わります。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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