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『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ著 あらすじと感想

前回の記事では私が最も好きな小説の一つである『はてしない物語』を考察するにあたっての前書きをご紹介しました。

本日は考察にあたっては物語の筋がわかっていないと、ということであらすじをご紹介していきたいと思います。長編作品ですのであらすじといえ長いですがお付き合いください。

ミヒャエル・エンデ著『はてしない物語』

□構成について
本作品は主に二部構成。
第一部は、主人公バスチアンが本の中の世界ファンタージエンの壊滅を救うまで、第二部はファンタージエン国救済後、バスチアンが自分自身を探す為の旅をして現実世界に戻るまでです。

第一部
主人公バスチアンは10か11歳くらいの背の低い太った少年。でぶでのろまのため、クラスのいじめっ子たちからいじめられています。その上落第するくらい成績が悪い。ある日、バスチアンは登校時にいじめっ子たちからの追手を逃れようと、近くの古本屋に逃げ込みます。バスチアンは店主としばし話をしますが、店主が奥の小部屋で電話をしはじめたために、学校へ向かおうと思った矢先、バスチアンは店内にある一冊の本に吸い寄せられてしまいます。その本はあかがね色の絹の表紙をした『はてしない物語』という本でした。なぜかはわからないけれども、バスチアンはどうしてもその本が欲しくなり、店主が電話に夢中になっている隙にその本を持ちだしてしまいます。罪悪感にかられながらも、自分が求めていたと確信する本を手に入れることが出来たという喜びと共に学校に向かったバスチアンは、校舎の屋根裏に隠れ、表紙を開きました。

『はてしない物語』という本の中は、ファンタージエン国という国が舞台だでした。国には地域ごとにたくさんの異なるいきものが住んでいますが、最近国全体の様子がおかしいといいます。様々な地域が「虚無」に侵され、「なくなっている」というのです。虚無に侵された場所は文字通り消えて存在しなくなり、恐ろしいことにその原因がわかりません。この事態に、各々のいきものたちは、国の女王幼ごころの君に使者を送りますが、幼ごころの君は思い病状に臥せっていました。女王の命は、ファンタージエン国の存在そのものであり、幼ごころの君の死は即ち国の滅亡を意味します。女王の病状と「虚無」の侵食が何らかの形で関係していること以外、国の誰も原因がわからず、国民たちはあたまを抱えていました。そんななか、幼ごころの君は、「アトレーユ」という名の青年に使者を遣わせ、国を救う為に探索の旅へするように任命し、アトレーユはそれを受け入れます。

バスチアンは、夢中になりながらページをめくります。そしていつしか、「この物語の中に入ることが出来れば良いのに!」と思いながらアトレーユと共に旅を送っていました。
アトレーユは長い道のりを経て、国と幼ごころの君を「虚無」から救う方法を知ることになります。それは「外国(とつくに)」というファンタージエンのかなたにある国の住民、人間種族が幼ごころの君に新しい名をつけることでした。国を「虚無」から救うお告げをアトレーユに伝えたウユララは人間種族が持つ才をこのように述べた。

かれらはみな、世のはじまりより、名づけの才に恵まれています。いつの世にも、幼ごころの君に、新たなうるわしい名前をささげ、君のお命をもたらしてきたのです。ところがすでに絶えて久しく、人間はファンタージエンにこないのです。かれらはもはや道を知らず、われらがほんとうにいるのを忘れ、信じなくなってしまったのです。ああ、人の子が一人でもくれば、それですべてはよくなるものを !

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語 上』上田真而子/佐藤真理子訳

このお告げをアトレーユと「共に」聞いたバスチアンは、自分ならばよろこんでファンタージエン国に飛んでいくのに!と架空世界であるファンタージエン国に行くことが出来ない自分を悔います。実は、バスチアンは勉強嫌いで運動神経も悪いですが、想像することだけは大の得意だったからです。バスチアンは、自分がファンタージエンに行けば、幼ごころの君にとびきりの美しい名前をつけられる自信がありました。アトレーユはその後も旅をつづけ、紆余曲折を経て遂に幼ごころの君と対面を果たします。幼ごころの君は、名づけの救世主は既に『はてしない物語』の一部になっていると言い、起こったことを全て書き記すことが出来る古老に物語を始まりから記すように頼みました。
 驚くべきことに、書き記された物語のはじまりとは、ファンタージエン国の始まりではなく、バスチアンが古本屋へ駆け込んだところからが文字として記されていました。自分が読んでいる物語の中に自分が登場していることに驚愕したバスチアンは、求められた救世主が己であることに気づき、「本当に」物語の中に入ってしまいます。

第二部
ファンタージエン国に入り込むことが出来たバスチアンは無事、幼ごころの君に対面し、「モンデンキント(月の子)」という名前を授けました。バスチアンはモンデンキントに「これで終わりなのですか。」と尋ねると、モンデンキントはこれが始まりで、バスチアンがこの世界を新しく創るのだと言います。モンデンキントが言うには、バスチアンが望んだものは全て形となって現れ、ファンタージエン国を創るのだそう。それはモノだけではなく、バスチアンの容姿を、デブでのろまな少年から美少年に変身させることまでもを可能にしました。モンデンキントは「汝の 欲することを なせ」という言葉をバスチアンに与えたメダルに託して、消えてしまいます。
旅に出たバスチアンは、自身が欲した食べ物、いきもの、草木花、最初はどんなものでもすぐに実現することに驚き、しかし次第に得意げになっていきました。出会ういきものすべてがバスチアンに敬意を示し、そのうち多くのいきものがバスチアンのお供になりました。旅の途中、バスチアンは会いたいと思っていたアトレーユと遂に対面を果たします。勿論アトレーユもバスチアンと共に旅に同行することになり、二人は様々な話をしました。そのうちにアトレーユは、モンデンキントがバスチアンに与えたメダルは、バスチアンに大きな力を与えていると同時に、バスチアンの元いた世界の記憶を奪っていることに気づきます。そして何より問題なのは、バスチアンは記憶を失っていることを問題だと思っていないことでした。バスチアンが元の世界へ戻れないことを心配したアトレーユは、バスチアンに忠告をしますが、バスチアンは与えられた力に酔って耳を傾けることをしません。高慢になったバスチアンの元からアトレーユや他のいきものたちは徐々に去っていき、バスチアンは「元帝王たちの都」へたどり着きます。
そこには、言葉の無い、「からっぽ人間」たちが住んでいました。監視役の子猿アーガックスによると、「からっぽ人間」たちはバスチアンのように人間界からやってきて、元の世界へ戻れなくなったのだそう。

「帰りたいと望まなきゃならんのに、この連中、もうなんにも望まなくなってるのさ。みんな、最後の望みを何か別のことに使っちまったんだな。」「最後の望みだって?」バスチアンはたずねた。唇が青ざめていた。「好きなだけいつまでも次々と望みを持てるんじゃないのか?」……「あんたが望むことができるのは、あんたの世界を思い出せる間だけ。ここの連中は、記憶をすっかりなくしちまった。過去がなくなったものには、未来もない。……こいつらには変わりうるものがもうないのさ。自分自身がもう変われないんだからな 。」

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語 下』上田真而子/佐藤真理子訳

帰れなくなった「からっぽ人間」たちの姿と、アーガックスの言葉によって、バスチアンはあと少しで自分も「からっぽ人間」になるところだったということ、アトレーユは自分を助けようとしていたことに気づきます。バスチアンはアーガックスにお礼を言い、元の世界に戻るための唯一の方法、「最後の望み」を見つける為に旅を続けました。しばらくして、バスチアンは「変わる家」にたどり着きます。この家に住むアイゥオーラおばさまは、この家にいて時期が来れば、「真の意志」とは何か、バスチアンがわかるようになると教えてくれます。
バスチアンがアイゥオーラおばさまと「変わる家」で過ごした長い長い間、おばさまはバスチアンに沢山の食べ物と愛情をあたえてくれます。はじめはバスチアンもされるがままにおばさまからの愛情と食べ物を受け取っていましたが、次第に以前感じていたような飢餓感は薄れ、何か別の憧れが目覚めていきました。

それは、これまで一度も感じたことがなく、あらゆる点でこれまでの望みとは全然違う欲求だった。自分も愛することができるようになりたい、という憧れだった。自分にはそれができなかったのだと気がついたのだった。バスチアンは愕然とした。そして悲しかった。けれども、その望みはどんどん強くなっていった

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語 下』上田真而子/佐藤真理子訳

アイゥオーラおばさまは、バスチアンにその憧れこそが「最後の望み」であり、「真の意志」であると教えてくれます。愛することが、真の意志、「汝の欲すること」なのだと。バスチアンはおばさまから、バスチアンに残された最後の記憶は「バスチアン」という自分の名前であることを教えてもらった次の日、元の世界に帰ることの出来る唯一の場所、生命の泉へと旅立ちます。
泉を探して歩みを進めていると、バスチアンは絵の採掘坑にたどりつきました。バスチアンは、そこで出会った盲目の坑夫ヨルに生命の泉への道を尋ねると、そのためには泉へ導いてくれる絵を採掘場から探し当てなくてはならないと言います。その絵を手に入れることは、バスチアンの最後の記憶である名前を失うことになるとも。バスチアンは覚悟の上であくる日もあくる日も採掘場へ行き、ある夕方、やっとその一枚に巡り合えました。そしてその瞬間から「少年」は名前を失いました。
生命の泉へと歩みを進めるうち、名の無い「少年」が救い主だったころに出会った道化蛾シュラムッフェンに襲われ、絵を粉々にされてしまいます。泉に導いてくれる絵を失い、全てを失った「少年」は、雪にひざまずきました。そのとき、少し離れた雪原の先で、二つの影が立っていることに気づいた。アトレーユとアトレーユの友人である白い幸の竜フッフールが「少年」を見つめていたのです。「少年」はアトレーユを見つめ返し、自らの意志でメダルを外しました。その瞬間、三者は生命の泉の前に立っていました。絵も名前も持たない「少年」は一度は泉に水を飲むことを拒否されますが、アトレーユの証言によって泉の水を飲むことを許され、少年は名前を取り戻し、ファンタージエンと人間の友情を誓って現実世界へ戻っていくのでした。

現実に戻ったバスチアンは、本を盗んだ古本屋の店主にあやまりにいきました。本を返そうにも、ファンタージエンから戻ってきたとき、本は消失してしまったのです。しかし、店主はそんな本は元々持っていないといいます。バスチアンがファンタージエン国の話をすると、店主は詳しく知りたがり、一から説明するのに数時間もかかってしまいました。バスチアンが驚くことに、店主はファンタ―ジエンの存在を信じてくれたのです。

「もののわかった人間はだれだって信じるだろう。」……「絶対にファンタージエンに行けない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」……「ファンタージエンにいってもどってくるのは、本でだけじゃなくて、もっとほかのことでもできるんだ。きみも、やがて気がつくだろうがね 。」

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語 下』上田真而子/佐藤真理子訳

店主はバスチアンにこれからも店に顔を出すように言い、お互いの経験を話し合おうと握手をもとめました。バスチアンはその手を握り返し、またきっとくると約束したのでした。


□感想
児童文学と称されるには、相当な集中力の要する長編物語です。
語り切れない程のシンボルや、メッセージ満載の宝箱みたいなお話だと思います。
私が初めてこの作品を読んだとき、ファンタージエン国に存在するいきものや植物すべてが個性的でワクワクするのに、本質的なメッセージは深刻で重たくのしかかりました。真の意味で「欲すること」とは何かを理解せず、エゴで求めたものによって、記憶を失っていったバスチアンのように、我々も何かを手に入れるために、代わりに大切なことを忘れてしまっているのではないかとギクリとさせられます。能率主義、物質社会で生きる我々は次第に作中の「からっぽ人間」になりかけているのではないかと恐怖すら感じます。

エンデは、「からっぽ人間予備軍」たちである我々現代社会の読者を、バスチアンと共に「はてしない物語」の旅へ送り出すことによって、人々が苛まれている「虚無感」から救う道筋をこの物語で示そうとしたのではないかと思います。想像力と空想力、そして全ての人々が本来持っている筈の「真の意志」、即ち「能動的な愛」に対するエンデの確かな信頼が感じられる作品です。

現代の危機を救うのは心だという確信、「希(ねが)うことが大切だ、希(ねが)えば成る」とよく言っておられた。「私は楽観論者だ」とも。そういうおおらかさ。バスチアンがあの長い迷いの末に到達した悦びは「生きていく悦び」だと言っていたエンデ。……エンデの思い、希いは、読者の一人一人が残された数々の作品を、おもしろく、楽しく読むことで、ずっと伝わってゆくだろう。

上田真而子「訳者あとがき」(ミヒャエル・エンデ『はてしない物語 下巻』)

物理的な誘惑が溢れている現代では外的要因が「幸福」をくれるかのような錯覚に陥りがちです。お金、権力、称賛、物質、他人が自分を「どう扱う」かで自分の幸福度が決まると本気で考えている、受動的な姿勢になってしまいがちなのではないかと思います。

バスチアンも最初はそうでした。自分の容姿や、人々の自分に対する態度やメダルや武器といった外的なモノが自分を幸せにしてくれると思って、欲すれば欲すほど、その物質を手に入れることが出来る代わりに自分の記憶を失っていきました。外的要因は一時的な虚栄心を満たすことは出来ても、本当の意味で幸福感を与えることしか出来ない。その真実がエンデは伝えたかったかったのではないだろうかと思うのです。
バスチアンが到達した「生きている悦び」とは、自身の心の中で愛を生み出すことです。自分の幸福は世界中のどこにも存在せず、誰も与えることが出来ず、自分の中でしか生み出せない。「幸せになりたい」、この世を生きる全ての人が持っているに違いない願い。他人や物質に「求める心」よりも、自分が他人や物質、自分自身を「愛せる心」をつかうことが、その願いを叶える何よりの「近道」であることを、『はてしない物語』は教えてくれます。

あらすじと感想だけでかなりの長文になってしまいましたが、次回以降の記事では作品と著者であるミヒャエル・エンデを様々な観点から考察していきたいと思います。


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