なにかを「つづける」ことについて

なにかを続けるにあたって大事なのは、なにがほしいのか、だと思うんです。例えば、「小説家になりたい」とか「ブログで月5万円稼ぐ」など。自分はどこに行きたいのかって「目的地」がないと、書き続けていても、終わりがみえず、「なんだ、続けたって意味ないじゃん」って、やめいてく人は多いとおもう。つまり、継続できないのは、自分にとって報酬にあたるものが発生していないからだとおもってる。

ぼくがみていて思うのが、「誰かを助けたい」って声をあげる人がいたときに、サービスとして「あなたの悩み聞きますよ。」とか「お手伝いします」って公言するひとって、たくさんいると思うんですよね。でも、お悩み相談を仕事にしたいのに、ブログ上で、ひとの愚痴をいったりだとか、ツラい思いをしてる人を助けたいとか言っておいて、「最近、とてもしんどくて、息苦しい」みたいに、その人自身が不幸になっているパターンがあり、頼ろうにも頼りたくないと思わせるような発言を繰り返してしまい、ひとが離れていってしまうような、もったいなことをしてる人が多いなって感じます。

自分なんかは、とくに人助けをしたいとかもなく、定期購読マガジンみたいにお金を稼ぐのは、きっと無理だなって思ったので、「じゃあ自分はなにをしたいのか」について考えてみたところ、「人と会いたい」って気持ちがとてもつよくあって、「多くの人が、(良い意味で)会いたいとは思わないような、そんな変わった人と会ってみたいんだよな。」って本音に気づくことができた。

ひとりで生きるのって、とても寂しいことだし、辛いことだと思うんですけど、「じぶんとはなしてみたい」って思う人なんにんか集めてきて、話し相手になってくれるひとが一人でもいたら、もう十分なのかなっておもう。

noteを続ける目的って、書くことを仕事にするためではなく、自分と似たようなユーザーと仲良くなりたいだけだった。自分がいっしょにいて心地よいと思えるような、そんなひと。人と話すのが、もともと好きだったから、そのついでに、文章を書くってことをやっているだけ。

好きで続けているわけでも、嫌いであるわけでもないけれど、続けるってことを続けたことによって、「ここにいるのも悪くないな」「むしろ、心地よいかもしれないな」って思えたから。ふだんなにげなく生きていたら、出会えないような人と、「はなしてみたい」って欲が、じぶんを動かし、なにかを続けるって行為につなげていた。あなたはどうだろうか。

なにかを続けるためには、自分のことを知る必要がある。自分はなにをおもい、どこへ向かっているのか。答えはいつも、他人ではなく、自分のなかにある。

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