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小説シリーズ

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2021年10月の記事一覧

ランドマーク(98)

ランドマーク(98)

 開いた目に白磁の天井が映った。

 ここはどこだろう。すぐにそう思った。天国を思わせる真白の床と壁はわたしがこれまで夜を越えたあの部屋と変わりがないように見えたが、わたしの第六感がわずかな差異を見つけ出したのだった。

 わたしを囲むようにカーテンレールが配置され、そこからこれまたピュアホワイトのレースが吊り下げられている。おそらくこの部屋にはわたし以外いないはずだが、間仕切りなんて必要なのだろ

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ランドマーク(99)

ランドマーク(99)

 おそらく、ミッションまでの時は近い。だからこそわたしは見知らぬ別の部屋(もしくは施設)へと移送されたのだし、母もおいそれとわたしに接触することはできなくなったというわけだ。

 その割には、とわたしは思った。どうして詳細な説明をわたしは受けていないのだろう。ARグラスを使うのか専用の装備を開発しているのか知らないが、とにかくわたしは火星へ向かう道すがら、地球上の施設と交信を行う必要がある。なにも

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ランドマーク(100)

ランドマーク(100)

 わたしは布団からひょっこりと顔を出した。わたしの乗る船は、この部屋よりももっと小さい。誰もいない、わたしだけの空間。もう慣れっこだ。独りでいるのは怖くない。湿気た海苔の匂いを思い出した。誰かのための孤独なら、それは本当の孤独じゃない。

 呼吸が浅くなったことを感知したのか、枕元のスピーカーから声が聞こえる。

「おはよう」母の声だった。

「うん、おはよう」わたしは気恥ずかしさを覚えた。布団を

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ランドマーク(101)

ランドマーク(101)

 詳細はグラスと合成音声によって説明された。そこに母の声が介入することはなかったし、合成音声のどこにもその面影はなかった。まるで、委員会が、わたしと母の間に流れる血縁を修正液で塗りつぶそうとしているみたいだ。
 これは意外にも穿った見方なのではないか。わたしの感覚は研ぎ澄まされている。
 戦闘機は旧式のもの。というか戦闘機ですらない。わたしが乗るのはT-38、ご丁寧なことに、宇宙飛行士達が操縦訓練

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ランドマーク(102)

ランドマーク(102)

それから試験当日まで、文字通り味気ない日々が続いた。わたしの腕には何本かの針が刺され、何枚かの電極が貼り付けられ、口からは何ミリリットルかの唾液が採取された。母の声は聞こえない。わたしはすでに孤独だった。この壁に囲まれた部屋の外側にいる人々、別の生き方、広い空。人の気配を感じるからこそ、わたしの孤独は深いものとなった。まるで、それは初めから意図されていたかのように。わたしは枕と布団を友とし、浅い眠

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ランドマーク(103)

ランドマーク(103)

 米軍の撤退に伴い施設は閉鎖されたが、その数年後、維持管理を行っていた県から委託される形で委員会が使用することとなった。戦闘機はもちろん撤退時にすべて引き払われているため、国内各地から旧型機や練習機が輸送されたのだった。わたしの父を含め、委員会の上層部は飛行訓練に何度か立ち会った。父は実際に搭乗までしたそうだ。それは宇宙へ行くため。わたしの父は、研究者であり宇宙飛行士だった。わたしが生まれるまでは

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ランドマーク(104)

ランドマーク(104)

 あいにくの曇り空に、わたしは沈んだ気持ちを隠しきれなかった。周りを気にすることもなく、大きくため息を吐く。長い廊下はありえないほどに白く、人の気配はない。

 意図的に消されているんだろうな、とすぐに気付いた。この壁だって、覆い隠すためのものに過ぎない。いくらわたしを落ち着かせようとしたって、そのたくらみは上手くいかないだろう。初めての世界に触れるたび、わたしの心はそわそわと浮き足立つ。わたしの

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ランドマーク(105)

ランドマーク(105)

 パジャマ姿にヘルメットを抱えたわたしは、急な地震から逃げ延びたバイク乗りのようにも見える。さすがにサンダルというわけではなく、ごく一般的なスニーカーが施設の入り口には用意されていた。わたしは裸足のまま、キャンバス地に爪先を押し込んでいく。いままでの扱いからすると不躾といっていいほどに、すべてが雑然としていた。ただ色だけが、塗り固められた色だけが、必要最小限の秩序と権威を守っていた。

 機械があ

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ランドマーク(106)

ランドマーク(106)

 さほど経たないうちに、首筋がしっとりと濡れているのを感じた。汗というにはさらさらしているから、水蒸気だろう。もやもや、じめじめ、どんよりと空に切れ間はなく、それがわたしの閉塞感を加速させる。箱の中の箱、わたしはマトリョーシカ。低気圧のせいか、服装のせいか、気分のせいか、息苦しさの原因を探るには、さまざまな要素が絡み合いすぎている。わたしは誰にも吐露できない。飲み込んだ言葉は胃に滞留したのち、血中

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ランドマーク(107)

ランドマーク(107)

 翼の上をへたへたと歩く。周囲に(おそらく)たくさんの人間がいる(であろう)状況で、こんな格好をしなければならないのは、どうにも恥ずかしかった。白いパジャマの膝部分はすでにしっとりと濡れている。わたしはハッチに腕を掛け(お風呂のふちでのぼせた人みたいだな、と思った)そのまま身体をコックピットに押し込んだ。ぱたん、と軽い音がしてハッチが閉まる。わたしはヘルメットを外したくなった。操縦席からの眺めを、

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ランドマーク(108)

ランドマーク(108)

 遠くで低い音が聞こえた。怪獣の鳴き声みたいだ。残念ながらわたしはヒーローではない。善にも悪にも興味はないし、この世界ではそのどちらも大した意味を持たない。感情を殺したわけではない。最初から、持ち合わせていなかっただけだ。

 わたしをのせて機体は動き始める。身体の下に、タイヤの転がる感触があった。わたしは微動だにしないまま、身体は運動エネルギーを獲得していく。コックピットから見える景色は天候のせ

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ランドマーク(109)

ランドマーク(109)

 雲は灰色をしていた。いや、灰色、といってしまうには、ずっと複雑な色彩があった。グレイスケールの空は白から黒にかけてのありとあらゆる色が取り揃えられていて、わたしが毎日を過ごした部屋と比べてみれば、その差は明らかだった。世界は複雑だ。どこまでも、どこまでも、わたしの予想の遥か上を行く。いくらARが発達したって、きっとほんものには敵いっこないだろう。

 わたしの耳は轟音に包まれて、もはやある種の静

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ランドマーク(110)

ランドマーク(110)

 めまぐるしく情景が変化する。目の前が明滅する。コントラストに欠けた世界にも、それぞれの輝きがある。大気で散乱した光は雲を構成する粒子にぶつかり、思い思いの色に変わっていく。わたしの目玉には、どんな色が映っているだろう。真下からただ眺めるだけのわたし。曇り空を目にしては、憂鬱に浸っていたわたし。もうそうは思わない。

 隙間から光が差した。強烈な白。一瞬目がくらみ、再び開けた視界の先には、空があっ

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ランドマーク(111)

ランドマーク(111)

 花火のことを考えた。昔はあったらしい。たくさん空に打ち上げて、それをみんなで眺めるやつ。なんじゃそりゃ。下から見るとシンメトリーの花みたいに、綺麗に見える。映像は何度か閲覧した。よっぽど精神的に余裕があったんだろうな。大規模にそんなイベントを開催できるなんて、この国の現状からはとても想像できない。でも確かにあったのだ。ほんの半世紀、わたしの両親が生まれる前までは。

 でもわたしは気楽に遊覧飛行

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