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ランドマーク(109)

 雲は灰色をしていた。いや、灰色、といってしまうには、ずっと複雑な色彩があった。グレイスケールの空は白から黒にかけてのありとあらゆる色が取り揃えられていて、わたしが毎日を過ごした部屋と比べてみれば、その差は明らかだった。世界は複雑だ。どこまでも、どこまでも、わたしの予想の遥か上を行く。いくらARが発達したって、きっとほんものには敵いっこないだろう。

 わたしの耳は轟音に包まれて、もはやある種の静寂に近いのではないかとさえ感じる。なにせ、わたしはそれを煩わしいとは思わないのだ。そこに音があり、わたしがある。そのことに違和感はなかった。身体はシートへ縛り付けられたままで、両手を満足に動かすことさえできない。これじゃ空飛ぶ棺桶だな、とわたしは思った。わたしの生命はとうにわたしの手中にはなく、存在しない神を思い浮かべては会釈を繰り返した。死んだらどこへ行くのだろう。母のことを考えると、わずかに胸が締め付けられる心地がした。母だってこの試験の危険性は分かっているはずだ。相応の覚悟をして送り出したんだ。死んでも構わない、そんなはずはない。ただ、母は役割を全うしようとしているだけだ。母の覚悟はわたしが一番よく知っている。手巻き寿司のワサビ、辛かったなあ。

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