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小説シリーズ

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2021年7月の記事一覧

ランドマーク(78)

ランドマーク(78)

 六合目。別の登山道と合流して八合目を目指す。高木は減って(といっても、もともとほとんどないようなものだったが)ハイマツが姿を現しはじめる。黒く湿っていた地面は白みを帯び、大小たくさんの石で覆われている。大部分は角が取れ丸くなっているが、ひときわ大きい石(岩といったほうがいいだろう)の集団はごつごつとした姿でわたしの行く手を塞いでいる。おそらくこれは〈塔〉の崩落に伴って砕けたものだ。〈塔〉の後片付

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ランドマーク(79)

ランドマーク(79)

 八合目までは飛ぶように歩いた。身体が軽い。荒天とは真逆の調子に、わたしは自分が天邪鬼であることを改めて自覚した。雨の中を踊るように、歌うように。舘林とのことは頭の片隅にもなかった。嘘。わたしはごまかすつもりだった。自分自身を。今の自分がどれだけ馬鹿げた行動を取っているか、そのうえどれだけ馬鹿げた言葉を掛けられたか、そのどちらにも向き合うことへ億劫になっていた。わたしが踊るたび、それに呼応するよう

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ランドマーク(80)

ランドマーク(80)

 体勢につられて心持ちまで内向きになってくる。ネガティブな想像力は留まるところを知らず、まさに奔流のような激しさでわたしの胸を突き動かす。一筋の落雷、わたしの心臓はぴたり。青天の霹靂と表現したらごちゃついてしまうな。とにかく雷に打たれて死ぬのはごめんだ。死にたいのか死にたくないのか自分でもよくわからない。消えてしまいたいという願望はたしかにある。でも、その具体的な方法について想像すると途端に恐ろし

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ランドマーク(81)

ランドマーク(81)

 数十秒おきの雷鳴を聞きながら稜線を歩く。霧がだいぶ濃いからひどく見通しが悪い。この道は火口へ続く道。この山の頂上は火口のふちにあって、そこへ至るまではだいたい楕円を半周する必要がある。祠はかつての噴火口の内側に安置されているはずだ。でもこの天気じゃあちゃんと見つけられるか怪しい。わたしはどこへ向かっているのだろう、という疑問が何度かわたしの胸を横切った。道っていうのは本来果てしなく続くものだ。生

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ランドマーク(82)

ランドマーク(82)

 ごろごろと巨大な猫の鳴き声を聞いた。反射的に後ろを振り向く。先程まで歩いていた道から煙が上がっている。背中の汗が瞬間、乾き上がったように感じた。落ちたんだ。本当に、落ちた。ふいに全ての恐怖が形を変える。駆け出していた。祠までの徒競走。最下位は雷に打たれてもらいます。契約書にはサイン済み。一番上には大きな字で自己責任と書かれている。わたしはとっくに了承済みだった。

 走れど走れど祠は目に付かない

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ランドマーク(83)

ランドマーク(83)

 やっとの思いでたどり着いた祠の前に、わたしはくずおれた。目の前にある祠はサッカーボールほどの大きさしかない。雨宿りできるのは土竜か蛙くらいだ。蹴りつけてやりたい衝動をわたしの良心が押さえつける。平均よりも小さなわたしの身体はこの祠にとってあまりにも大きい。わたしはもう笑うしかなかった。声を上げるわけでもなく、涙を流すわけでもない。ほんのわずかに口角を上げ、強く奥歯を噛み締めた。折れるほど、強く、

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ランドマーク(84)

ランドマーク(84)

 どれくらいの時間が経っただろう。風と雨、それから雷。わたしがいくら耳をふさいだってこの世界はわたしへ干渉してくる。運が良いのか悪いのか、雷には打たれることのないままでわたしは祠に寄りかかっている。両足を投げ出して、ちょうど背中をもたれかけるような格好になる。五体投地ってこういうことなのか。わたしは何をするでもなく、ただ父との記憶をなぞっていた。宇宙へ人間を送り届けようとした父。国力を誇示する手段

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ランドマーク(85)

ランドマーク(85)

 わたしは雨が目に入ることも厭わず、まっすぐに天を見上げた。空はからっぽ。想像できないほどに大きな、空洞の中にいるみたいだ。国益のために天を貫こうとした父。一人の親としての父。その奇妙な解離に生理的な嫌悪感を覚えた。わたしに限りなく近しい人間の、わたしに見せない顔。父親はいわば役割にすぎず、彼はそれを演じていた。想像が翼をはためかせ、わたしの気分は地に落ちる。

 今では記憶の痕跡をひっそりとたど

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ランドマーク(86)

ランドマーク(86)

 ああ、雨足が強さを増した。しばらく経てばまた弱まるだろう、という予想がどれほどに無駄なものであるかを、わたしは経験から痛いほどよく知っていた。窮地に追いやられた人間は、得てして自分にとって都合の良い解釈をしたがるものだ。決断の時は近い。次に弱まった瞬間を狙って、駆け下りる。といってもぬかるんだ山道だ、転倒の危険性を踏まえるとそこまでの速度は出せないだろう。それにわたしの体力にだって限界がある。行

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ランドマーク(87)

ランドマーク(87)

 わたしは自分の身体を運んでいる。重力に従って、位置エネルギーを運動エネルギーへと変換する。音や摩擦で幾分かは失われてしまうから、変換効率が百パーセントに到達することはあり得ない。これはそのまま永久機関の否定を意味する。つまりどうあがいたって、わたしは完璧たり得ないということだ。誰しもがそう。父も母も祖母も、みんなそう。物理法則に縛られ、たくさんの制約の中で生きている。本当の自由は規則により律せら

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ランドマーク(88)

ランドマーク(88)

 しばらく下ると、再び辺りはハイマツに囲まれる。禿山とこの山が呼ばれるようになってしまってからも、ハイマツは大きくその植生を変化させることのないまま根付いている。このことから一部ではその環境適応力に目を付け、この先数百年後に見込まれる火星の植民地化に向けた生育実験が検討されているらしい。現時点でこの国に宇宙へ向かう手段が存在しないこと、その「手段」の喪失によってハイマツの持つ能力が明らかになったこ

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ランドマーク(89)

ランドマーク(89)

 下りというのは足に悪い。登りよりも何倍も負担がかかるからだ。重力と同じ方向に足を下ろしていく。先へ進むために必要なエネルギーの一部を重力が担ってくれるわけだから、登りより下りにかかる時間は当然短い。しかし、そのエネルギーを地面へ放出する際に反発力を受けるのもまた、わたしの足なのだ。足首、膝、股関節、繋ぎ目にずれが生じれば初めは小さなものでもあっという間に大きな亀裂ができる。なにしろ足踏みは何万と

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ランドマーク(90)

ランドマーク(90)

 わたしは歩く。歩く。不格好なまま、歩く。落ち武者か水死体か分からない風体で土を踏みしめる。どれだけ痛くたって、生きて帰れば問題ない。直接命に関わるような怪我ではないのだ。ただ関節を痛めただけ。場所と状況が最悪だっただけ。雨は弱まるどころか恐ろしいほどの勢いで頭上に降り注ぐ。洞窟でも見つけて一晩越せないだろうか、そんなことを考えたが、そんなものは周りに見当たらない。この山の周辺に洞窟があるなんて話

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ランドマーク(91)

ランドマーク(91)

 目の前がチカチカと、点いたり、消えたり。就寝前に部屋の電気を消すとき、こんな視界をしていたな。豆電球を付けて、消して。また付けて。LEDが眩しくて、わたしは思わず目をつ。もう一度開くと、目の前にはザックが転がっていた。

 転んだのか。わざと、わたしはわざと転んだんだ。両の足首が痛む。立ち上がることすらままならない。わたしは斜面に寝そべったままで足首に手をやる。すでに左は腫れ上がっている。ひねり

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