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J.S.バッハ エピソード

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J.S.バッハのエピソード&イラスト
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#バロック音楽

バッハ エピソード3 オルガニスト バッハ誕生

バッハ エピソード3 オルガニスト バッハ誕生

バッハは、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校で聖歌隊奨学生として勉強しながら、近隣の街へ頻繁に訪れ、オルガン音楽やドイツの宮廷社会で流行していたフランス風音楽など、さまざまな音楽を吸収していきます。

同時に、教会のパイプオルガンの改修工事も見学しオルガンの仕組みも理解していきました。

こうしてオルガン演奏能力はもちろんオルガン製作の知識を得たバッハは、アルンシュタットという街にある教会の

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バッハ エピソード11 目標:ブクステフーデ

バッハ エピソード11 目標:ブクステフーデ

ブクステフーデに会いに行き、16週間も仕事を休んだバッハ。

アルンシュタットに戻ってきてからの演奏は大胆でダイナミックなものになっていました。

ブクステフーデに会いに行ったバッハ エピソード

ブクステフーデの影響が認められる作品

・《パッサカリア ハ短調》BWV582
・《プレリュードとフーガ ホ短調》BWV533

さらに礼拝の時の讃美歌伴奏も長い即興演奏や大胆な変奏や転調で会衆を驚かせ

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バッハ エピソード20 友達 テレマン

バッハ エピソード20 友達 テレマン

バッハはワイマール時代、あちこちの町を訪れ、演奏会を開いたり、その土地の人々と親交を結んでいきました。生まれ故郷、アイゼナハを訪れた時、ゲオルク・フィリップ・テレマンと知り合います。

テレマンは当時、とても有名な作曲家でした。バッハは4歳年上のテレマンを兄のように慕い、尊敬していたと思われます。

バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが生まれた時、テレマンが名付け親として、自分の名

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バッハ エピソード21 カリキュラムのシステム化

バッハ エピソード21 カリキュラムのシステム化

バッハはオルガニストになった20歳前後には弟子がいて、音楽家教育を始めていました。「もっとも傑出したオルガン奏者でありクラヴィーア奏者」と称されたバッハ。ワイマール時代には弟子が十数人になっていました。

弟子たちの人数も増えたので、バッハはしっかりとレッスンのカリキュラムをシステム化していました。

伝記作者のフォルケルによると、
最初の打鍵法が特徴的で、何ヶ月もの間、両手の全ての指の練習を1本

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バッハ エピソード22 バッハ転職決断

バッハ エピソード22 バッハ転職決断

バッハが宮廷楽師長を務めていたワイマールは、領主ヴェルヘルム・エルンストと甥のエルンスト・アウグスト公の共同で統治する政治形態をとっていました。
しかし、この二人は性格も好みも正反対で、容易ならない確執が生じており、公爵は、宮廷楽団の音楽家たちが分家のエルンスト・アウグスト公の城で演奏することを禁止するほどでした。
バッハは、このような理屈に合わない命令には従わず、親しくしていたアウグスト公の誕生

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バッハ エピソード23 マルシャン未対決

バッハ エピソード23 マルシャン未対決

前回のお話:バッハはワイマールを離れ、ケーテンに就職することを決めます。

1717年、ケーテンへの就職が決まったバッハはドレスデンへ旅行します。その頃、音楽的に最先端をゆくドレスデンの音楽に触れ、これからのケーテンでの活動に向けて世俗器楽曲の作曲の準備勉強をしたかったためではないかと言われています。

その時、ドレスデンの宮廷から、ちょうど同じく滞在していたマルシャンと音楽で競演することを提案さ

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バッハ エピソード24 牢屋で作曲

バッハ エピソード24 牢屋で作曲

前回のお話:1717年にケーテンへの就職が決まリ、バッハはドレスデン旅行に行きました。

ドレスデン旅行から帰ってきたバッハは、公爵に辞表を提出しますが、公爵は辞任を許さず退職を拒否し、不服従の罪で拘留します。

演奏家としてドイツ中で有名になっていたバッハの辞任を認めることは、公爵としてプライドが許せなかったのでしょう。

バッハはその間を、なんと《平均律クラヴィーア曲集》の作曲の時間に充てまし

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バッハ エピソード25 罪人から宮廷楽長へ

バッハ エピソード25 罪人から宮廷楽長へ

前回のお話:バッハは辞任が認められず、不服従の罪で牢屋に繋がれてしまいました。

牢屋に繋がれてしまったバッハは、1か月後、ようやく釈放されると、ワイマールから逃げるようにケーテンに向かいました。
ケーテンでの職業は、当時の音楽家としては最高位の地位である宮廷楽長。バッハ32歳のことです。

当時のケーテン領主レオポルト侯は自身も優れた音楽家であり、ヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバが得意でチェン

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バッハ エピソード26 生涯一度も出会えなかったバッハとヘンデル

バッハ エピソード26 生涯一度も出会えなかったバッハとヘンデル

ヘンデルはバッハと同じ1685年生まれ。中部ドイツの狭い範囲にとどまっていたバッハとは対照的で、国際派として広くヨーロッパ中を旅して各地で活躍しました。生家のすぐそばにあったハレ大聖堂のオルガニストとしてキャリアをスタート。その後はハンブルクを皮切りに、ローマやナポリ、フィレンツェなどのイタリア各地、ハノーファー、ロンドンと渡り歩きます。バッハはそんなヘンデルの作品を自ら書き写しとるほど尊敬してい

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バッハ エピソード27 妻マリア・バルバラの死

バッハ エピソード27 妻マリア・バルバラの死

突然の不幸
1720年6月、バッハはレオポルト公のお供でカールスバートへ旅行に行き、1か月ほど家を空けました。7月に戻ってくると、旅行前にはとても元気だった妻マリア・バルバラが亡くなり、すでに10日前に埋葬も済んでいるという悲痛な出来事が待っていました。残された子供は4人。年長のカタリーナ・ドロテアは12歳、年少のゴットフリート・ベルンハルトは5歳でした。

バッハは幼い頃からたくさんの死を経験し

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バッハ エピソード28 339回目の誕生日を祝う

バッハ エピソード28 339回目の誕生日を祝う

3月21日はJ. S. バッハのお誕生日(旧暦)です。
グレゴリオ暦だと3月31日になります。
今日は339回目のお誕生日です。
お祝いしましょう!
ハッピーバースデー!

今日はこれを聴いてみましょう。

4台のチェンバロのための協奏曲イ短調BWV1065
この曲は、ヴィヴァルディ作曲の協奏曲集作品3『調和の霊感』第10曲の4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲ロ短調RV580のリメイクです。

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バッハ エピソード31 アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集

バッハ エピソード31 アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集

バッハは1721年に再婚した16歳年下のアンナ・マグダレーナ・バッハのために、翌年1722年から、一冊の音楽帳《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集》を書き始めます。のちに《フランス組曲》となる5つの組曲(第6番を除く)がバッハ自身の手で記入されているため、とても貴重なものとなっています。

そして、1725年から第2巻がスタートします。第2巻は特に有名です。『アリアと歌曲』BW

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バッハ エピソード32 父親の顔

バッハ エピソード32 父親の顔

以前、バッハの教育システムについて書かせていただきました。

教育についてはとても熱心で、弟子たちのために惜しげもなく自らの技術を注ぎ込んでいました。バッハにとって『人を育てる』ということは、自らが苦労した経験からも、とても大切なこととして捉えていたのではないかと思います。

さて、息子たちへの教育はどうだったのでしょう?

1. 《フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集》1720年、バッハは一冊

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バッハ エピソード33 音楽嫌いなお妃さま

バッハ エピソード33 音楽嫌いなお妃さま

1721年、バッハが再婚した1週間後、君主レオポルト侯(27歳)がアンハルト=ベルンブルク公の公女(19歳)と結婚しました。フリーデリカ・ヘンリエッタというこの侯妃は、芸術や音楽に全く関心を示さず、音楽士など低級な人種だと思っていました。

この音楽嫌いの侯妃は、バッハの音楽やバッハとレオポルト侯の友情に嫉妬していたようです。

そのため、レオポルト侯も次第に音楽に関心をもたなくなり、バッハに対す

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