外国語学習と語学試験の盲点
あまり音楽と関係ないのだが、音環境に関する考察ということで、常々感じている外国語学習、とりわけ音声試験の盲点について、考えを書く。
外国語を学ぶには無数の方法があり、どれが合うかは人それぞれだ。また、要求される分野にもよる。瞬時に通訳出来るような音声コミュニケーション重視なのか、アカデミックで専門的な文章作成能力が必要なのか。もちろん目標がそこまで高くない場合もあると思うが、能力の証明として、様々な語学検定試験を受けることは、語学習得の過程において王道と言っても良いくらい、一般的である。
この語学試験、そしてそのための勉強に、盲点が潜んでいると思うのである。語学試験には必ず音声問題がある。ものによっては、会話形式の面接試験もある。この音声を介在する外国語能力というものは、思ったよりも環境に左右される厄介なものなのである。なぜなら、試験及びその勉強と、現実の音声環境は相当に違うからだ。
まず第一に、試験会場のような静寂の中で会話をする場面が、日常生活でどれだけあるか、考えてみてほしい。これだけひとつの音声にのみ集中できる音環境は、実際の生活ではほとんど皆無だ。日常は常に、他人の話し声、足音、交通騒音、喧しい電子音、種々雑多のBGMなど、音に囲まれている。その音の洪水の中から、自分にとって必要な情報を無意識に選び、聞き取っている。もし聞こえて来る全ての言葉に反応していたら大変なことになる、とりわけ人のひしめき合う場所では。会話は、ある程度の騒音の中で行われるのが普通であり、その前提で使えないと意味がないのである。
第二に、机に座り、ただ聴くことに集中するという環境も、日常ではそう滅多に訪れない。物を渡したり、やり方を説明したり、食べながらだったり、歩きながらだったり、身体のあちこちを同時に動かしながら、話者に対しての耳の位置も常に変化しながら、会話は進行する。静止状態で、一方方向からのみ音声を聞き続けるという会話環境は、日常ほとんどない。つまり、音声に対して、どんな方向からも、どんな動きをしながらでも対応出来なくては意味がないのである。
第三に、現実では、常に一対一で音声コミュニケーションが行われるとは限らない。ある人の声に被せて他の人が話し始めるのは日常茶飯事であり、自分で遮ったり、遮られたりということも常に起こる。試験のような綺麗な会話が行われることなんて、そうそうないのである。試験勉強のために、こういった不自然に整った会話ばかり聞き続けると、対応出来る音声に対する幅が狭くなるように思う。
第四に、試験やその練習用に作られた音声は、まさにお手本であり、あまりにも綺麗で癖がない。日本語であっても、発音や抑揚に個人差があり、全員がアナウンサーのように素晴らしい発声をする訳ではないのと同様、個人差はどの言語にもある。ボソボソ喋る人、滑舌が悪い人、甲高い声の人、早口な人、同じ文を発話しても、結構な幅がある。ある程度の発音の幅を持って言語を認識出来なければ、結局は実際の場面で役に立たないのである。
第五に、普段日常場面で日本語を話すとき、どれだけ文法的に正しい文を最後まで言い切っているか、観察してみてほしい。話終わる前に誰かが割り込んで来たり、話の腰を折られているうちにねじれた文になってしまったり、主語と述語が噛み合っていなかったり、言い淀んだり、関係ないことを端挟んだり、フィラーが多くてよく分からない文になっていたり、なんとなく濁して最後まで言い切らなかったり、生きた会話というものは、そもそも不正確でどうにでも形を変えていくものなのである。試験用の会話は、あまりにも完全に作られているので、完璧な文しか対応出来ないようでは、実際の会話で無力になる。
語学の成績と、実際の音声コミュニケーション能力が必ずしもリンクしてないことは多々あるが、そのひとつの要因が、試験用の音声及び音声環境に慣れ過ぎてしまい、そこから逸脱した現実のコミュニケーション、つまり不正確で不完全で日常音に埋もれている会話に適応出来ないということではないかと思う。試験のリスニング問題が完全に理解出来るからといって、それが即ち現実に全て当てはまるということではない。実際のコミュニケーションは、やはり実際に身体を使った経験値が必要なのである。この部分が、試験勉強をやり過ぎることの盲点だと思う。
外国語学習はシンプルで、試験勉強をすると試験がよく出来るようになる。実際のコミュニケーション経験を積むと、コミュニケーションが上手くなる。たくさん読めば素早く的確に読めるようになる。書く練習を積み重ねれば、洗練された文章が書けるようになる。時間を使った部分が磨かれる。
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