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クリストファー・ノーラン監督、宇宙を題材にした映画作品、世界を知るための学問、「お前はどうしたいの?」という問いについて。

クリストファー・ノーラン監督について

 クリストファー・ノーラン監督って、改めて、めちゃくちゃ凄いなと『インターステラー(2014年)』を再鑑賞して思った。

 この映画、上映当時に観たときは「父と娘の愛と感動の物語なんだな(ハナホジ)」程度の感想だったのだけど、最近は相対性理論、量子力学、多元宇宙(マルチバース)、超ひも理論などを、あくまでも概念的な理解のみだけど個人的に勉強している中で再鑑賞してみたら、「なんじゃこれは!最先端の宇宙論がてんこ盛りで、めちゃくちゃ面白い映画ではないか!!」と目から鱗が落ちまくった次第であります。

『インターステラー(2014年)』は『ダークナイト』シリーズや『インセプション』などのクリストファー・ノーラン監督が放つSFドラマ。食糧不足や環境の変化によって人類滅亡が迫る中、それを回避するミッションに挑む男の姿を見つめていく。主演を務める『ダラス・バイヤーズクラブ』などのマシュー・マコノヒーを筆頭に、『レ・ミゼラブル』などのアン・ハサウェイ、『ゼロ・ダーク・サーティ』などのジェシカ・チャステインら演技派スターが結集する。深遠なテーマをはらんだ物語に加え、最先端VFXで壮大かつリアルに創造された宇宙空間の描写にも圧倒される。(シネマトゥデイより引用)

 上映後の2017年、重力波の発見でノーベル物理学賞を受賞するキップ・ソーン氏が科学コンサルタントで参加していたことを知って驚く。

 どうりで、ワームホールやブラックホール、5次元世界など、最新の宇宙論がなければ到底視覚化できないような題材を採用しながらも、圧倒的なリアリズムを実現できているわけだ。

 クリストファー・ノーラン監督の作品は『インターステラー』以外にも名作揃いで、『インセプション(2010年)』『ダークナイト(2008年)』『メメント(2000年)』など、好きな映画ばかり。

・『インセプション(2010年)』

『インセプション(2010年)』は『ダークナイト』の気鋭の映像作家、クリストファー・ノーラン監督がオリジナル脚本で挑む、想像を超えた次世代アクション・エンターテインメント大作。人の夢の世界にまで入り込み、他人のアイデアを盗むという高度な技術を持つ企業スパイが、最後の危険なミッションに臨む姿を描く。主役を務めるのは『シャッター アイランド』のレオナルド・ディカプリオ。物語のキーマンとなる重要な役どころを『ラスト サムライ』の渡辺謙が好演する。斬新なストーリー展開と、ノーラン監督特有のスタイリッシュな映像世界に引き込まれる。(シネマトゥデイより引用)

・『ダークナイト(2008年)』

『ダークナイト(2008年)』は映画『バットマン ビギンズ』の続編で、バットマンの最凶最悪の宿敵であるジョーカーの登場で混乱に陥ったゴッサムシティを守るべく、再びバットマンが死闘を繰り広げるアクション大作。監督は前作から続投のクリストファー・ノーラン。またクリスチャン・ベイルも主人公、バットマンを再び演じる。そして敵役のジョーカーを演じるのは2008年1月に亡くなったヒース・レジャー。シリーズで初めてタイトルからバットマンを外し、新たな世界観を広げたダークな展開に目が離せない。(シネマトゥデイより引用)

・『メメント(2000年)』

『メメント(2000年)』は、前向性健忘(発症以前の記憶はあるものの、それ以降は数分前の出来事さえ忘れてしまう症状)という記憶障害に見舞われた男が、最愛の妻を殺した犯人を追う異色サスペンス。ロサンジェルスで保険の調査員をしていたレナード。ある日、何者かが家に侵入し、妻がレイプされたうえ殺害されてしまう。その光景を目撃してしまったレナードはショックで前向性健忘となってしまう。彼は記憶を消さないためポラロイドにメモを書き、体にタトゥーを刻みながら犯人の手掛かりを追っていく……。(シネマトゥデイより引用)

 クリストファー・ノーラン監督は、作家主義と大作主義のバランスを保ちつつ、商業的に成功している稀有な存在。日本にはこういう人ってほとんどいない気がするなあ。今まで正直、作品にばかり目がいっていて、あまり作家について意識していなかったのだけど、めちゃくちゃ尊敬してます。

ちなみに、クリストファー・ノーラン監督はネット嫌いらしい。

 「ネットのせいでみんな本を読まなくなった。書物は知識の歴史的な体系だ。ネットのつまみ食いの知識ではコンテクストが失われてしまう」とインタビューで語っている。

 オンライン全盛の世の中だけど、オフラインでのインプットも同じく大事ってことだよね。何事も、偏り過ぎてはいけない。

 僕も職業柄、昨今のインターネットおよびSNSの波及を鑑みて「もう若い人は本や長い文章を読まないから……」とか、「もう若い人は映画や長い動画を観ないから……」なんてことを知ったような顔で口にしてしまいがちなんだけど、デジタルネイティブの世代が、すべてのクリエイティブの礎を司っているわけではないことを忘れてはいけない。

 むしろ、オフラインの時代のほうが人類の歴史はずっと長いわけで、オンラインの文化ばかりに注目していたら、人類の叡智の大半を見逃してしまう。

 インターネットは、知識の外部保存やアクセスの利便性を高めたにすぎない。

 重要なことは、時流に流されてオンラインの文化に依存しすぎず、あらゆる歴史的な体系から得られる文脈を旺盛に吸収し、それを現代語に翻訳して、過去と現在と未来の関連性を発見し、知識と感動を共有していくことだと思う。

宇宙を題材にした映画作品について

 最近は、宇宙を題材にした、いわゆるハードSFのハリウッド映画をまとめて観ているのだけど、冒頭で紹介した『インターステラー(2014年)』以外のおすすめタイトルは『ゼロ・グラビティ(2013年)』『オデッセイ(2015年)』『コンタクト(1997年)』などが挙げられる。

・『ゼロ・グラビティ(2013年)』

『ゼロ・グラビティ(2013年)』は映像美と臨場感が非常に素晴らしい。宇宙空間でたった一人きりになる孤独。リアリズムを追求した静寂の世界。そこから生還し、最後に感じる地球の重力。息を呑む傑作だ。

『ゼロ・グラビティ(2013年)』は『しあわせの隠れ場所』などのサンドラ・ブロックと『ファミリー・ツリー』などのジョージ・クルーニーという、オスカー俳優が共演を果たしたSFサスペンス。事故によって宇宙空間に放り出され、スペースシャトルも大破してしまった宇宙飛行士と科学者が決死のサバイバルを繰り広げる。監督を務めるのは、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』『トゥモロー・ワールド』などの鬼才アルフォンソ・キュアロン。極限状況下に置かれた者たちのドラマはもとより、リアルな宇宙空間や事故描写を創造したVFXも必見。(シネマトゥデイより引用)

・『オデッセイ(2015年)』

『オデッセイ(2015年)』も予想以上に良かった。火星に置き去りにされたマット・デイモン演じる植物学の博士が、いかに生き延びるかを描いた物語。何が起こるかわからない宇宙でひとり奮闘する姿は、人間の生存本能そのものに訴えかける凄みがある。

 テスラのCEOであるイーロン・マスクも提唱している火星のテラフォーミング(惑星地球化計画)を題材としているだけに、時代が追いついてきたときに改めて観直す機会がありそうな作品。

『オデッセイ(2015年)』は『グラディエーター』などのリドリー・スコットがメガホンを取り、『ボーン』シリーズなどのマット・デイモンが火星に取り残された宇宙飛行士を演じるSFアドベンチャー。火星で死亡したと思われた宇宙飛行士が実は生きていることが発覚、主人公の必死のサバイバルと彼を助けようとするNASAや乗組員たちの奮闘が描かれる。共演は、『ゼロ・ダーク・サーティ』などのジェシカ・チャステインや『LIFE!/ライフ』などのクリステン・ウィグなど。スコット監督による壮大なビジュアルや感動的なストーリーに注目。(シネマトゥデイより引用)

・『コンタクト(1997年)』

『コンタクト(1997年)』は、僕がまだ10代の頃に一度鑑賞したことがあったのだけど、何度観ても素晴らしい。物語の深遠さは『インターステラー』と並べても全く見劣りしない。若き日のマシュー・マコノヒーの姿も観られる。

 科学と宗教の対峙。地球外知的生命体と接触したとき、全世界の人類は何を思うのか。普遍的なテーマを取り扱っている作品だけに、今後の人生でも幾度か観直す機会がありそう。

 ちなみに、僕は個人的には、地球外知的生命体との接触が現実のものになるかどうかについては、やや否定的な考えである。

 だって、宇宙は138億年前から存在しているのに対して、我々人類は文明を持って1万年程度しか経っていないのだ。

 そんな、いわば雨水の水滴の中に生きる微生物程度の存在である人類が、広い宇宙の外側にいる知的生命体と、同時代的に接触できると考えるほうが、どこかおこがましいのではないだろうか。

『コンタクト(1997年)』と比べて『インターステラー(2014年)』に好感が持てるのは、無理に地球外知的生命体を登場させないところ。

 ちなみに、初期の『インターステラー(2014年)』の脚本(弟のジョナサン・ローランが執筆)には、地球外知的生命体が登場していたらしいのだけど、そこを削ったのがクリストファー・ノーラン監督のセンスの良さだと思った。

 地球外知的生命体の姿を登場させた瞬間に、作家の願望の世界に入ってしまって、客観性やリアリズムは完全に失われてしまう。

『コンタクト(1997年)』では、地球外知的生命体は善意の存在として描かれているけれど、そもそも、善意や悪意というのは人間が持っている独りよがりな感性かもしれないわけで、地球外知的生命体はそんな狭い尺度では測れない、もっと奇想天外な存在かもしれないやん? というか、地球外知的生命体であるならば、その存在は間違いなく我々の想像を超えていて、接触の意図も含めて、何もかもが未知でなければいけないやん? ……とかなんとか、色々と思ってしまうわけです。

 ちなみに、「なぜ、この広い宇宙の中で人類が未だに地球外知的生命体と接触できないのか」という問いについて、フェルミのパラドックスという論文があるので、気になる人は調べてみると面白いだろう。

『コンタクト(1997年)』の劇中に登場する地球外知的生命体であるヴェガ人も、今すぐ全てを知ろうとする人類に対して、「焦らないで」といった意味の言葉をかける。おっしゃるとおりだ。人類はいつも、せっかちで、結論を急ぎ、焦りすぎなのだと思う。

 今後、科学が発達していく中で地球外知的生命体の探査も本格化していくだろうと予測できるけれど、そんな時代だからこそ、改めて腰を据えて観たい作品である。

『コンタクト(1997年)』は地球外知的生命体と人類の接触を描いたカール・セーガンのベストセラーを映画化した作品。地球外知的生命体の存在を研究している天文学者エリーは、ある夜、未知の電波をキャッチする。それはヴェガ星からのものであり、地球上の映像と謎の設計図が納められていることが判明。それはヴェガ星への輸送機関であった。急ピッチで基地が建造されるが、エリーはパイロットの選考から洩れてしまう。だがテロリストによってヴェガへの発進基地は無残にも破壊されてしまう……。(シネマトゥデイより引用)

世界を知るための学問について

 最近は、このように宇宙に関連した映画をまとめて観るのと並行して、気になっていた『多元宇宙論』『量子力学』の本も読みはじめた。

この宇宙が「不自然なほど」よくできているのはなぜ?
その謎を解く鍵は「マルチバース(多数の宇宙)」だった!
「Q1 宇宙に果てはありますか」
「Q2 宇宙には始まりがあったのですか」
「Q3 宇宙はある場所が爆発して生まれたのですか」
「Q4 宇宙人はいますか」
これらの問いに宇宙論研究者が本気で答えます。「我々はどこまで世界を理解したのか?」現代物理学は、この宇宙が絶妙なバランスの上に成り立っていることを明らかにした。「なぜ、地球はこの場所にあるのか?」「なぜ、重力や電磁気力はこの強さなのか?」「我々の宇宙は唯一の存在なのか、無数の宇宙の中の1つに過ぎないのか?」最新物理学の観測事実に基づいた「マルチバース」の理論と「人間原理」を徹底解説。(amazon内容紹介より)
 量子論は、漫画やアニメなどのサブカルチャー作品で、結構もてはやされているようだ。人気アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』では、オープニングタイトルのバックに物理学の学術用語や数式が次々と映し出されており、その中には、ブラ=ケット記法で書かれたシュレディンガー方程式や、スピンの交換関係などもある。もっとも、こうした扱いは、きちんとした学問的理解に基づいているわけではない。『ノエイン もうひとりの君へ』では、多世界解釈らしきものに基づいて、運命を選び直す可能性が示唆されているし、『ゼーガペイン』では、量子コンピュータの内部に現実と変わらない擬似世界が構築されている。いずれも、物理学的にはあり得ないファンタジーの話である。SF作家のアーサー・C・クラークは、「高度に発達した科学は魔術と見分けがつかない」という名言を残したが、どうやら多くの現代人にとって、量子論は、科学と言うより魔術に近いものに見えるらしい。量子論が魔術じみたものとして捉えられるのは、一般に流布している解説が常識を大きく逸脱しているせいでもあろう。「シュレディンガーの猫」「多世界解釈」「量子もつれ」といった量子論の話題は、しばしばあまりに現実離れした説明がなされ、人々を混乱させる。私に言わせれば、こうした常識を逸脱する説明は、量子論に対する誤解を増やすだけである。量子論は、もっとリアルで実用的な理論であり、常識に沿った範囲で理解することが可能である。本書は、リアルなイメージに基づいて、常識的な立場から量子論を理解しようとする試みである。本書で語られる量子論は、あまりにリアルすぎて、漫画やアニメに登場する量子論に比べると、夢がないと感じられるかもしれない。しかし、これが(私の信じるところによれば)量子論の真の姿である。高度に発達した科学でも、充分な知識があれば、魔術とは異なる合理的なものであることがわかるはずだ。 吉田伸夫 (本書「はじめに」より)

 僕はバリバリの文系で、理系の物理学者ではないから、これらの学問の複雑な数式や理論構造の詳しいところは全くわからない。

 けれど、総論各論を概念的に理解していくと、三島由紀夫が晩年に心酔した仏教の世界観、『唯識』に通ずる予感がしている。

 この『唯識』という考え方は、三島由紀夫の絶筆となった「豊饒の海」4部作の重要なテーマのひとつになっている。

唯識(ゆいしき)とは:《〈梵〉vijñapti-mātratāの訳》仏語。一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえないことをも含む。法相(ほっそう)宗の根本教義。(コトバンクより引用)

 意識が宇宙をつくる。

 というのが、僕の直感的な結論なのだけど、宇宙を理解するための学問は、文系・理系どちらも『この世界はどこから来て、我々はどこへ向かうのか?』という共通の問いがあるので、似たような答えに、どこかで帰結する可能性があると思っている。

 最先端の量子力学や多元宇宙論が、仏教の唯識思想とつながれば、これはめちゃくちゃ面白いよな、と。そんな希望的予感があるので、ここ数年の間に蓄積してきた様々な知識を掛け合わせながら、世界を理解するための思索を、ライフワークとして続けていきたいと思っている。

つまり、お前はどうしたいの?

 最後になったけれど、ここまでのさまざまな話を踏まえた上で「つまり、お前はどうしたいの?」という問いについて、簡単に触れておこうと思う。

 ちなみに、この「お前はどうしたいの?」という言葉は、株式会社リクルートホールディングスに伝わる有名な魔法の言葉である。

 これは、リクルート社員の当事者意識を言語化するための言葉であり、僕はいつも、自分があれこれと考え事をするスパイラルに入ったときに、この言葉を思い出すようにしている(※筆者はリクルートで働いたことはないのだけど、リクルート関係者が営むベンチャー企業で何社か働いてきた)。

 結論から申しますと、小説を書きたいと思っています。

 この数年、ずっと、ずっと、ずーっと同じようなことを言い続けてきたのだけど、今までの僕は、いったい何を書くべきか、その答えがまったく見えなかった。だから、初期衝動の想いを抱えながら、思索を練り続けてきたのである。前回小説を書いたのは、2014年頃のことだから、たぶんもう5年くらいは、アレコレと構想を続けていることになる。

 初めて小説を書いたのは、2010年のことだった。何かを書かなければならないという、猛烈な使命感に駆られた。死に物狂いで原稿用紙300枚の小説を書いたけれど、それは何だかよくわからないヘンテコな物語だった。たぶん、当時の僕の願望が、ただ荒削りな文章で書かれているだけの代物だったのだと思う。

 でも、そんな原稿を読んで、不思議といろいろな人たちが僕のことを応援してくれた。そこから会社をやめて、転職活動を繰り返しながら短編小説を数十本書き、最後に長い小説を書いたのが、2014年頃のこと。

 僕には物語を書くうえでのお師匠さんがいるのだけれど、その方にダメ出しをもらい、それ以来、長い小説を書くことはできていない。

「きみが小説を書かなければならない本質を見つけられたら、あるいは」

 といった言葉を言われたことを、今でも覚えている。

 そこから、僕はなぜ、小説を書くことにそこまでこだわるのか、その本質を考え続け、いったい何を書くべきかをずっと探し続けてきた。その答えが、今やっと、見つかってきたような気がするんです。だから、そんな衝動をこぼさずに残しておこうと思って、今日はこんな風に長い文章を、真昼間から書いている。

 ここ最近、ずっと、生きづらいと思っていた。

 なんというか、世の中に充満している空気が薄く感じるのである。見当違いなことを毎日しているような、居心地のわるさがあった。本来の自分がやるべきことから、どんどん離れていっている気がする。

 3年前に職業をフリーランスライターに転向し、業績もある程度伸び、いわゆる「(書きたいことかどうかはさておき)何かを書くことで食べていく」「自由な時間軸で生活をする」「会社組織に縛られずに生きる」といった基本的な目標は達成できていると思い、しばらく満足していた。

 でも、やっぱり何か、しっくりこない。

 そのしっくりこなさは、「つまり、お前はどうしたいの?」という問いへの答えを、ずっと保留してきたことから発生していたのだと、今はっきり思う。

 フリーランスライターとして、SEOコンテンツマーケティングの業界で仕事を積み重ね、中堅程度の実力まで上がってきた今。新しく取り組まなければならないのは、企業に納品する原稿を正確に書くことだけに人生を消費するのではなく、自分のドメインになるような仕事を残すことだ。

 その一環として、僕はやはり、自分で物語を立ち上げる能力を磨き上げていきたいのである。小説を書くことに挑戦するというのは、その目的を達成するためのひとつの手段なのだ。

 というわけで、これから来年にかけて、フリーランスライターの業務と並行して、創作活動を本格的に行っていきたいと思っている。いくつか、出してみたい文学賞もあるのだけど、それらはあくまでもマイルストーンとして考え、まずは作品の完成を目指したい。

おわりに

 最近考えていることを端的にまとめようと思ったのだけど、結局、こんなにも長い文章になってしまった。思えば、noteに投稿するのも半年ぶりくらいのことかもしれない。

 200日くらい、毎日更新を続けていた頃が懐かしい。

 あの頃に交流があった方々は、今でもnoteを開いているだろうか。

 もしも、「今でも君のことを覚えてるよ」という方がいたら、嬉しいので「スキ」をぽちっと押してください。これからきっと、創作を続ける中で、更新する頻度も自ずと増えると思うので。

 自分の思ったことや感じたことを、生きた言葉で残しておける場所というのは、すごく貴重なんです。 

 先日、良いなあ、と思った言葉があったので、ここに貼っておく。

ダメでダメでダメな人が一回頑張ってやっぱりダメだったみたいな小説が良かった。あれいいよね、もう自分でも出来ないけど、みたいな感じが好き。

 そうです。

 そんな感じの小説を、書きたいな、と思いました。

 物語というのは、実際に書いてみないとわからない、広大な旅のようなものだと思っている。頼りないプロットという名の筏(いかだ)を作り、大海原に出てみるは良いけれど、波間で激しく揉まれ、オールは吹き飛び、方位磁石は波にさらわれ、何を書けばいいのか、どこまで書けばいいのか、誰も教えてはくれない場所に放り出される。孤独と不安の中で、自分の中にある小さな宇宙と向き合いながら、世界の真理を、骨身を削って一行一行、創り上げていく。どこにたどり着くか、誰のためになるのかもわからない、途方も無い、徒労を重ねる作業。しかし、その先に、もしかしたら、誰か、ひとりの読者の心を温める、小さな物語が出来上がるかもしれない。そして、それはいつか、大きな宇宙の理(ことわり)に、僕たちが生まれた意味に、これから世界がどこに向かうのかの答えに、ほんの少しだけ触れるかもしれない。そんな希望こそが、僕たちを書くことに駆り立てるのです。今はまだ、誰も知らないものを見つけに行く。そんな冒険が、一生に一度だけでも良いから、命を賭けてやりたいんです。そして、そんな挑戦は、今この瞬間に生きている世界と、そこまで繋がる大いなる時空の系譜がなければ、成し遂げられないものであるような気がします。ほんのかすかな風を感じます。今しか無いのだと、思っております。

 長々と読んでくださった方、ありがとうございました。


 最後に、フランスのポスト印象派の先駆けである画家、ポール・ゴーギャン(1848年6月7日 - 1903年5月8日)の代表作を添付して、この文章を締めくくりたいと思う。


『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)』

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。人生のなかで時々ふっと思い出すこの問いに少し胸騒ぎはするが、時の流れのなかに自己を置いて眺める呪文のように、ほっとする人間もいるのではないだろうか。(中略)19世紀末のヨーロッパは、表面的には産業革命以降の物質文明の華飾的な発展を謳歌していた。しかし、ゴーガンがタヒチに行ったように、近代化に疑問を感じていた芸術家は少なくなかった。(中略)「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というゴーガンの問いの答えは、外在的なものではなく、問いと向き合った各個人の内にあるのかもしれない。この問いはいま私たちに一層強く迫ってきている。(ポール・ゴーガン《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》──人間再生の問い「六人部昭典」より引用)

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