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ボクたちの閉塞感にゆらぎをもたらすエフェクチュエーション

はじめに

この連載第1回から第3回までが本論となっています。長文になったことから、第3回までの〈まとめ〉を第4回に書きました。コンパクトに全体像がみえるように要約しましたので、よろしければそちらをご覧ください。


1.新しい方法としてのエフェクチュエーション

連載第3回の目的は、新しい方法としての〈エフェクチュエーション(Effectuation)〉を紹介し、その意味や意義を探っていくことです。いままでの要約は本文の最後にまとめていますので、ご参考にしていただければ幸いです。

エフェクチュエーションとは何か?

サラス・サラスバシー著
エフェクチュエーション
碩学舎 2015
Saras D. Sarasvathy
Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise
New Horizons in Entrepreneurship 2008
[監訳]加護野忠男 [訳]高瀬 進/吉田満梨

エフェクチュエーションとは、ヴァージニア大学のサラス・サラスバシー教授が体系化した、不確実性の高い状況における創造的な問題解決の方法のことです。エフェクチュエーションには近年、高い関心が集まっており、さまざまな研究や実践が進んでいます。

本稿はサラスバシー教授のこの著書にもとづいて書くことにします。しかし教科書的な解説は本書に頼むことにして、ボクが本書を読んでの気づきを交えながらの意訳を試みます。

自分たちが望むモノやコトを作り出す

エフェクチュエーションは、未来が不確実で予測不能であったとしても、自分たちが望む世界 - モノやコト - を作り出すことを可能にします。閉塞感に行き詰まっていても、現状にゆらぎをもたらすことができるのです。それによってささやかながらであったとしても、世界に働きかけることを可能にするのです。

ボクはこの新しい方法と共に世界に働きかける自発的な行動こそが、今の日本の閉塞状況にゆらぎをもたらす糸口になると考えています。

マハマト・ガンジーはこのように言いました。[2]

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、世界によって変えられないためである。

エフェクチュエーションは、その対概念としてコーゼーション(Causation)を置いています。コーゼーションとはボクたちがいままで常識とし、慣れ親しんできた方法のことです。例えば連載第2回では、以下の事例を紹介しました。

コーゼーション:特に昭和の時代に支配的だった考え方 - 成長主義

  1. マーケットX(作られた市場)があり、その市場規模はY億円である。

  2. 競合他社P, Q, Rがいる。

  3. ゴールは差別化戦略Zによって競合に勝利し、マーケットXの市場シェアM%を獲得することによって、売上目標N億円を達成することだ。

この例が示す通り、ビジネスにおいてボクたちは、市場や機会は既にどこかに存在している(既に作られたモノやコト)と考えがちです。それを探索してみつけだし、もっとも望ましいものを選択して、達成すべきひとつの正解としての目的(目標)として設定する方法を、ボクたちは常識としてきました。

その目的(目標)から逆算して、その目的(目標)を達成するための〈手段=やるべきこと=あるひとつの正解〉を選択する方法が優れていると考えてきました。事実ボクは企業現場で働いていたときに、そのような方法の指導を受けてきたのです。

もっとも、もっとあいまいな状況の方が多いかもしれません。ちっぽけな事例で恐縮ですが、ボクがライター業をはじめた時には、ボクには「書く仕事がしたい」というあいまいな目的しかありませんでした。書く仕事がしたいと思いながらも、では具体的に何を書けば良いのか、まったく検討がつかなかったのです。

だから「ライターとして成功するためには何をすべきか」を探索してみつけるために、膨大な手間をかけてきました。大量の書籍やYouTube番組を狩猟して「〇〇〇さえすれば成功するロードマップ=あるひとつの正解」を学んで実践を試みてきました。

しかし今では「ライターとして成功するためには何をすべきか」という、問いの立て方から間違っていたと思っています。なぜならば〈これをやれば成功する=普遍的な正解〉はどこにもないと思うからです。

ではエフェクチュエーションは、どのように考えるのでしょうか。実は〈価値提供ファースト主義〉とはエフェクチュエーションによるものでした。以下のように簡略化して紹介しましたが、本稿では後ほど詳しくその内容を解説していきます。

エフェクチュエーション:これから主流になりそうな考え方 - 価値提供ファースト主義

  1. 困っている人、Pに出会った。

  2. 自分が〈できることZ〉によって、そのお困りごとが解決できるのではないかと思った。そして実際にできることZで価値を提供したら、Pはすごく喜んで対価をくれた。

  3. Pと同じ悩みを抱えているQやRやSに出会った。そこでZを提供し続けたら市場Xができた。結果、もらえる対価も増えた。

2.いま、必要とされるエフェクチュエーション

そもそもボクたちを取り巻く状況は千差万別なのに、だから問題の解決策も千差万別であるはずなのに、〈これさえやれば成功する=普遍的な正解〉がどこかにあるはずだという考え方自体に問題があると思うのです。

では「〇〇〇さえすれば成功するロードマップ」を提唱する著者や制作者は、どうやって成功シナリオを獲得したのでしょうか。

もっともボクは〈成功のロードマップ〉のシナリオづくり自体をライターに外部委託する著者や制作者を知っているので(こういう人をエアプレイというそうです)、そうではない実体験からの成功シナリオを提唱している方々についてのことです。

その方々は自発的に試行錯誤で、自分ならではの成功シナリオを開発し獲得したのだと思います。その成功シナリオは、その人にとって有効な成功シナリオだと思うのです。ボクはそこからヒントを学ぶことはできますが、だからといって〈それさえやれば成功する〉とはいえないと思うのです。

誰でも新しいコトをはじめるときや新しいモノをつくるときは、目的はあいまいです。未来は不確実で予測不能であり、新しいモノゴトでなくてもこれだけ変化が激しい世界、あっという間の陳腐化が日常茶飯事です。あると思った市場や機会は、実は幻なのかもしれません。だから〈これさえやれば成功する=普遍的な正解〉があること自体を、ボクはいま、疑っています。

いままでボクたちが常識としてきたコーゼーションが、機能しない状況があることに目を向ける必要があります。未来が不確実で予測不能であったとしても、自分たちが望む世界 - モノやコト - を作り出すことを可能にするエフェクチュエーションが、いま、必要とされているのです。

幸せの青い鳥は自分の中にいる

モーリス・メーテルリンクの『幸せの青い鳥』では、チルチルとミチルが〈幸せの青い鳥〉を探して旅に出ます。様々な試練に出会いながら見つけた〈青い鳥〉が、実は〈青い鳥〉ではないことを学びます。そして〈青い鳥〉は手に入れることが出来ないものであることを悟るのです。しかし朝になって自分の家で目を覚ますと、青い鳥が実はそばにいたことを知るのでした。

この物語が示唆していることは何でしょうか。ボクはこう思いました。〈幸せの青い鳥=幸福な世界=望ましいモノやコト=ビジネスに例えれば望ましい市場や需要や機会〉は、自分たちの外側の世界にただ存在しているわけではないこと。幸せの青い鳥は、実は自分たちの中にいること。というよりもむしろ、自分たちで作り出すものであること。でもはじめはそれがわからないこと。試練の旅を経て成長してはじめて、それがわかるようになること。

ボクは企業現場で仕事をしていた時代に、ITベンチャー投資や新規事業開発プロジェクトの経験を通して、市場や事業機会だと思ったものが蜃気楼のようなものに過ぎなかったことを経験しました。そこにあるように思ったけど、実はなかったという意味での蜃気楼です。なぜあれは蜃気楼めいたものだと感じたのでしょうか。

これまでみてきたように、1990年代の半ばに創業したアマゾンがコーゼーションの方法にもとづいて、つまり合理的な計画にもとづいて、30年後の今日の姿をビジョン(目的)として描き、そのビジョン(目的)の実現に向けて一直線に突き進んできたと考えることは、とうていできません。

大きなビジョン(目的)を描いたかもしれませんが、そのビジョンに向けて一直線に突き進んできたと考えることには無理があります。むしろビジョンすら大きく変わっている可能性があると思うのです。

つまりアマゾンはコーゼーションの方法に従って、自分たちの外側の世界のどこかに正解としての市場や機会があるはずだから、それを探索して発見して選択して実行するという〈客観的に普遍的な正解を求める合理的な方法〉で成長してきたとは思えないのです。

事実、ある時、ベゾスは「アマゾンはベンチャープロジェクトの集合体である」と発言しています。

ボクがあの時、蜃気楼のように感じた理由がいまではわかります。それは市場にしろ機会にしろ、世界は誰かによって既に〈作られたもの〉であり、それを探索して好ましいものを選択する活動の中には自分がいないからです。それが〈自分事=自発的に作り出したもの〉にならないからです。どこかしら他人事な感じがしたからです。

アマゾンは強い自発的な意志に支えられて、30年をかけた膨大な試行錯誤のうえに、今日のアマゾンを築いたと考えるべきです。ボクはベゾスに会ったことがないので、本当のところは知らんけど。

だからライターとしてのボクにたとえれば、ボクはどこかにいる青い鳥を探してさまようのではなく、とにかく書き始めるべきだったのです。なぜならばつくる(書く)はわかるだからです。そしてわかるはかわるであり、できるだからです。

エフェクチュエーションは〈手段=自分がもっているモノやできるコト〉からはじめる方法です。そして進んで参画してもらえるパートナーとの、人的な共同体ネットワークのつながり(関係)のもとに、自分たちで望む世界 - モノやコト - を作り出していきます。

ボクはそうやって自発性を育みながら成長する新しい方法としてのエフェクチュエーションが、いま必要だと実感しているのです。

エフェクチュエーションの全体地図

図表3.1 エフェクチュエーションの全体地図

図3.1はエフェクチュエーションの全体地図です。この図はサラスバシー教授の著書に書いてあるわけではありません。もちろんサラスバシー教授のお墨付きなどありません。ボクがエフェクチュエーションをこう読み取ったという地図でしかありません。あらかじめご了承いただければと思います。

エフェクチュエーションの柱は〈5つの原則〉です。しかし図3.1では、以下の〈3つの原則〉を取り上げています。
【A】手中の鳥の原則
【B】クレイジーキルトの原則
【C】レモネードの原則
残り〈2つの原則〉については、後で述べることにします。
【D】許容可能な損失の原則
【E】機上のパイロットの原則

それではエフェクチュエーションの全体像を理解するために、エフェクチュエーションの全体プロセスを〈ヒーローズジャーニー〉になぞらえての意訳を試みます。

3.ヒーローズジャーニー

『千の顔を持つ英雄』ジョーゼフ・キャンベル著

ボクはエフェクチュエーションをはじめて学んだ時に〈ヒーローズジャーニー〉を連想しました。

神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、自身の著書『千の顔を持つ英雄(The Hero with a Thousand Faces)』で、さまざまな文化や時代の神話を分析することで、いくつかの共通する物語構造(型)を見出しました。

ヒーローズジャーニーとはそれら物語構造のひとつで、英雄が冒険に旅立ち、試練を経て成長し、帰還するまでの旅路に共通の型を指しています。

有名なのが『スターウォーズ』です。キャンベルに学んだジョージ・ルーカスが、ヒーローズジャーニーの型をそのままに『エピソード4』を制作したのです。ヒーローズジャーニーの型をもった物語は、いまや世界中にあふれています。いや、正確にいえば神話の時代から語り継がれているので、ボクたちの心の奥底に刷り込まれている型なのです。

『スターウォーズ』、『ハリー・ポッター』や『指輪物語』など著名な物語がこの型をもっているのはもちろんのことです。でもNetflixやアマプラでドラマやアニメを観れば、ヒーローズジャーニーの型があふれていることがわかります。

ボクたちの心の奥底に刷り込まれた成長物語の基本の型だから、感動したり興奮したり共感して涙を流すことができるのでしょう。

本稿ではヒーローズジャーニーの型を「旅立ち(Separation)」、「彼方での闘い(Initiation)」、「帰還(Return)」の3ステップとします。

図3.2 ヒーローズジャーニー

旅立ち(Separation)

〈【A】手中の鳥の原則〉を実行するステップです。〈【B】クレイジーキルトの原則〉と〈【C】レモネードの原則〉は、〈旅立ちー彼方での闘いー帰還〉を横断して適用する原則になります。

一見、〈方法論〉にしかみえないエフェクチュエーションですが、その背景には〈自発に至る人間の成長物語〉が隠れているとボクは考えています。

ヒーローは、はじめの段階ではまだ〈弱くて未熟な名もなき存在〉です。しかし日常生活を送っているヒーローに冒険への呼びかけがあります。スターウォーズになぞらえれば、ルーク・スカイウォーカーが偶然、発見した、R2-D2に隠されたレイア姫からの救援の依頼です。

しかし伯父と叔母の農場を手伝うルークには、世話になった家族を残しての旅立ちができません。そのうえルークは冒険への不安を隠すことができません。この葛藤と不安が〈旅立ち〉のひとつの特徴です。

しかしオビ=ワンはルークにジェダイの騎士としての宿命を語り、フォースを信じるように伝えます。

ところが事態は急展開します。叔父と叔母を殺されたルークは、もはや惑星タトゥイーンに留まる理由がなくなるのです。ルークはオビ=ワンと共に冒険の旅に出ることを決意し、宇宙へと旅立ちます。ルークは日常の世界を離れ(Separation)、冒険(Adventure)の世界に足を踏み入れたのでした。

この〈旅立ち〉では葛藤と不安をなんとか乗り越えて、冒険への旅立ちを決心するにあたって、喪失感が大きな役割を果たしていることが特徴です。

ルークは叔父と叔母を殺されました。

『新世紀エヴァンゲリオン』では、14歳の少年、碇シンジが父親に無視されてきた喪失感を背景に、綾波レイの負傷を目の当たりにして、やむなくエヴァ初号機に乗りました。

根っから陽気な『ワンピース』のルフィは、慕った赤髪のシャンクスが村を去ったことをきっかけにして「俺は海賊王になる」と吠えました。

感情を表に出さない葬送のフリーレンは、共に魔王討伐の旅に出た勇者ヒンメルの葬儀で、ヒンメルについて何も知らず、知ろうともしなかったことに気付いて涙しました。

『ゴジラ-1.0』に至っては特攻から逃げた敷島浩一が、その心の闇を克服するための物語であったとすらいえるほどです。

名経営者といわれる人の中には、若いころ、大病をしたとか、最近、リサーチした米国スタートアップのCEOは、コロナ禍で解散した前の会社の喪失体験を乗り越えるために再度の起業に踏み切ったといった、人間の物語をいくつもかいまみることができます。

〈【A】手中の鳥の原則〉は、いま、現在、自分がもっているモノやできるコト(手段)が限られているにしても、葛藤と不安を克服して、その手段から始めて冒険に旅立つ行動原則を意味しています。

彼方での闘い(Initiation)

ルークはタトゥイーンを出発後、ハン・ソロやチューバッカなど重要な仲間に出会います。その仲間と共に、デス・スターの設計図を反乱軍に届けるための旅を続けるのです。しかし一行はデス・スターに捕らわれてしまいます。

ルーク達は同じく捕らわれていたレイア姫を救出しての脱出を試みますが、ルークに最大の試練が訪れます。帝国軍兵士との激闘の後、脱出直前のルーク達の目の前で、オビ=ワンがダースベイダーに倒されるのです。オビ=ワンは死の直前に「フォースと共にあれ(May the force be with you)」とルークに伝え消え去ります。

しかしルーク達は脱出し、デス・スターの設計図を反乱軍に届けることに成功するのです。

〈彼方での闘い〉は、ルークが帝国軍との激闘とオビ=ワンの喪失からなる試練を乗り越えて、ルーク達が強い自発的な意志を醸成する、成長と変化の物語なのです。

〈【B】クレイジーキルトの原則〉は、将来的に、また潜在的にパートナーや顧客になるかもしれないたくさんの誰か(どこかにいるかもしれない青い鳥)に期待するのではなく、少数であったとしても、いま、目の前で約束してくれる誰かをこそ大切にすべきという原則です。

帰還(Return)

デス・スターの設計図からその弱点を見つけ出した反乱軍は、攻撃計画の実行に移ります。ルークは反乱軍のパイロットとしてXウィングに乗り、デス・スターへの攻撃に参加します。この戦闘への参加は、ルークの成長を証明すべき場でもあるのです。

ルークはフォースによってデス・スターの弱点を正確に攻撃できました。この一撃でデス・スターは破壊され、反乱軍は勝利を収めます。

ルークとハン・ソロ、レイア姫の勇気と成長の物語は称えられ、物語は希望に満ちた未来を予感させる形で一応の終わりを告げます。そしてエピソード5での新たな旅立ちに続くのです。

〈【C】レモネードの原則〉は、世界は偶発性にあふれているとの世界観に基づきます。

R2-D2に隠されていたレイア姫からのメッセージは、偶然、得られた情報であり知識です。ハン・ソロやチューバッカとの出会いは偶然の出会いです。オビ=ワンの死は、予測しえなかった偶発的な事件です。

コロナ禍は予測しようがなかった偶発的な事件であり、それを理由とした会社の解散は偶発的な事故です。

〈【C】レモネードの原則〉とは、予測しようがない偶然の出来事を〈出現しつつある状況をコントロールできるようになり、自発する意志を醸成し成長するための機会〉ととらえます。

良いことも悪いことも。ハン・ソロ達との出会いも、オビ=ワンの死も。ボクはこれを、予期せぬ偶然の出来事を成長の機会に変えるという意味で〈セレンディピティ=幸福な偶然〉と呼んでいます。

4.エフェクチュエーションの3つの原則とその意味するところ

【A】手中の鳥の原則

図表3.3 手段としてのわたし

〈【A】手中の鳥の原則〉においてボクたちは、〈目的〉から始めるのではなく〈手段〉から始めます。ここで〈手中の鳥〉というのは、どこか森の中にいるかもしれないし、いないかもしれない青い鳥ををめざすよりも、いま、わたしたちが完全にコントロール可能な〈手中の青い鳥〉から始めるべきことを示唆しています。

図3.2にあるとおり、〈手段〉とは〈手段としてのわたし〉のことです。〈手段としてのわたし〉にはふたつの要素、〈わたし(資源)=資源としてのわたし〉と〈わたし(可能)=わたしに可能なこと〉があります。

サラスバシー教授が熟練起業家のリサーチから導き出した〈わたし(資源)=資源としてのわたし〉は、3つの〈わたし〉から構成されています。これら3つの〈わたし〉は、それぞれが分離した人格ではありません。3つ全部あわせて〈わたし〉です。

  • 私は誰であるか?

  • 私は何を知っているか?

  • 私は誰を知っているか?

一方、〈わたし(可能)=わたしに可能なこと〉に関わる問いは、〈わたしは何ができるのか〉です。〈【A】手中の鳥の原則〉においては、〈資源としてのわたし〉に関わる問いからはじめて、〈わたしに可能なこと〉に関わる問いにつなげることから始めるのです。

【B】クレイジーキルトの原則

エフェクチュエーションは、コーゼーションが重視してきた競合分析や差別化戦略を無視します。エフェクチュエーションでは、進んで共同体ネットワークに参画するパートナーとの関係性のもとに、新しい市場を作り出す物語を展開するのです。

エフェクチュエーションはルークのヒーローズジャーニーを語るのではなく、ルークと仲間たちの成長物語を語るのです。

そのパートナーもどこかにいるかもしれない潜在的なパートナー候補よりも、共同体ネットワークへの参画を進んで名乗り出て、冒険を共にできる目の前のパートナーを重視します。

サラスバシー教授はスタートアップ企業の市場形成の過程では、最初のパートナーが顧客になり、最初の顧客がパートナーになるパターンが数多く観察できるといいます。

【C】レモネードの原則

世界には事実として偶発的な出来事があふれているにも関わらず、コーゼーションは予測できない要素を無視します。そして当初に決めた目的(目標)を一直線に達成しようとするのです。しかしエフェクチュエーションはこれとは対照的に、偶発性を活用しようとします。

既に述べたように、予測しようがない偶然の出来事を〈出現しつつある状況をコントロールできるようになり、自発する意志を醸成し成長するための機会〉ととらえるのです。

エフェクチュエーションでは、なぜこれを〈レモネードの原則〉と呼ぶかといえば「すっぱいレモンをつかまされたら、レモネードを作れ(when life gives you lemons, make lemonade)」という格言があるからだそうです。

たしかに巧妙なメタファーですが日本人のボクにはピンとこないので、勝手に〈セレンディピティ(の原則)〉と呼んでいます。

セレンディピティの研究においても、良い偶然も悪い偶然も幸福につながる機会ととらえ、幸福な結果に変える事例が数多く報告されています。例えば失敗の結果、できた〈弱い朔〉がポストイットになったとか。実験の失敗でカビを生やしてしまったことがペニシリンの発見につながったとか。あるいは大事故から新たな物理法則の発見につながったとか。技術革新につながったとかです。

コーゼーション v.s. エフェクチュエーション

それではこれらエフェクチュエーションの3つの原則の意味を探っていくことにします。

ここではサラスバシー教授が、エフェクチュエーションの原則を説明するメタファーとして好んで使う〈ディナーを作るシェフ〉の例を引用します。サラスバシー教授は〈エフェクチュエーションの対概念としてコーゼーションをおきました。そこでこのふたつの対比として、それぞれの方法を比較してみましょう。

シェフがディナーを作る:コーゼーション

  1. シェフは複数のメニューを選択肢として、ひとつのメニューを選択して決める(複数の所与の目的(メニュー)の中から、ひとつの目的を選択して決める)。

  2. メニューを実現するために最適なレシピを探索して見つけ出す(手段1を選択する)。

  3. レシピの調理に必要な材料を調達する(手段2)。

  4. 適切な道具を調達する(手段3)。

  5. 調理する(メニューを実現する)。

シェフがディナーを作る:エフェクチュエーション

  1. キッチンにある材料や道具をみて、レシピやメニューをデザインする(手段から始めて目的をデザインする)。

  2. 料理の準備を進める中で新しいメニューがひらめいたので、即興でレシピを再デザインする(真の目的を察知し再デザインする)。

  3. 調理する(メニューを実現する)。

注目すべきことはコーゼーションにおいては、はじめに複数の所与の〈目的(メニュー)〉の中からひとつを選択して、その目的達成のための〈最適な手段(レシピ)〉を選択することです。そしてメニューを実現する、リニアなプロセスになることです。

それに対してエフェクチュエーションは〈手段としてのわたし=いま、手中にあるコントロール可能な手持ちの手段〉から始めて、可能性がある目的(メニュー)をデザインするところが違います。逆向きなのです。さらにより良いメニュー(真の目的)を思いついたら、即興でそのメニューに切り替えるのも自由です。

〈作られたもの〉から選択するのではなく、〈作るもの〉に向かうプロセスにおいて選択の自由を生み出す

コーゼーションは、作られたもの(既存のメニュー)からひとつを選択し、それを目的として設定し、実現に向かうリニアなプロセスになります。つまりコーゼーションは本質的に、既に作られたものの延長線上に、その再現を目指すプロセスになるのです。

一方エフェクチュエーションは、〈手中にある手段〉からはじめて目的(メニュー)を想像しデザインします。しかしその後に新たな目的(メニュー)が想像でき、しかもその新たな目的の方がときめいたなら、その目的に即興で向かうのは自由です。

つまりエフェクチュエーションは、本質的に新しいモノやコトを作ろうとする創造のプロセスになるのです。新たな目的が想像でき、しかもその目的の方がときめいたなら、その目的に即興で向かうのは自由です。だからエフェクチュエーションは〈作るもの〉に向かうプロセスにおいて、選択の自由を生み出すことができるのです。

手段としてのわたしからみれば、〈創造性あふれるモノやコトを作ることができるようになりたいわたし〉の実現に向かう成長プロセスになるのです。

いままで述べてきたように、多くの日本企業が、1980年代に世界の頂点に君臨した時代のビジネスモデルを、30年間にわたって再現し続けてきたと考えることができそうです。コーゼーションの一本道から降りられなかったと考えることができそうです。その結果、閉塞感にとらわれることになったのではないでしょうか。

日本企業の多くが前例主義だといいます。ボクも新規事業開発プロジェクトなのに「絶対にそれは売れるのか?」と、成功のエビデンスを求める関係者を数多くみてきました。ましてや昨今のコンプライアンス遵守絶対の状況では、自由な想像力を巡らせる余白がないことも遠因のひとつなのかもしれません。

愉しいエフェクチュエーション

新しいモノやコトを作り始めるときには、誰であっても目的はあいまいです。でも誰しもつくるはわかるなので、作るものに向かうプロセスの途上で〈胸がときめくたくさんのモノやコト(目的)〉が、あれこれと頭に浮かぶことになるでしょう。

つまり〈作るもの〉に向かうプロセスにおいては、想像力を発揮できる限りにおいて、新たなモノやコト(世界)を自由にデザインして良いのです。そのどれを選択するかしないかの基準は、そのどれに胸がときめくかだけという、選択の自由を生み出すことができるのです。その選択の自由を制約するのは、もはや想像力の限界だけになるのです。

そういえばボクは大先生から、アメリカ人と日本人の小屋づくりの違いを教えてもらったことがあります。大先生がいうには「日本人の小屋づくりは生真面目で面白くない。小屋づくりにおいてもきちんと設計図を書いて、材料を集めて、設計図どおりの小屋をつくろうとする」とのことです。

一方アメリカ人はどうかというと、例えば川にいって見事な流木を拾ったとします。するとアメリカ人はその流木を使って、どんな小屋を作ることができるかをワクワクしながら考えるというのです。

だからエフェクチュエーションは、一言でいえば〈愉しい〉のです。胸がときめくのです。ボクは自発性とは、そんなモノやコトを自分で作り出すプラクティスから生まれるのだと考えています。できるようになることから生まれてくるのだと思うのです。

このエフェクチュエーションの方法は、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが創案した〈ブリコラージュ〉だとボクは思いました。ブリコラージュとは、何かを即興で作り上げることや、手元にある材料や道具を使って問題を解決することを意味します。

西田幾多郎がいう〈作られたものから作るものへ〉の思想は、その根底に重低音のように鳴り響いています。サラスバシー教授が提唱するエフェクチュエーションのベースには、それらの思想が根付いているのです。

可能態としてのわたし

ヒーローズジャーニーでは、はじめの〈わたし〉は弱くて未熟で名もなき存在です。目的や使命はあいまいで、未来は不確実で予測不能であり、世界は偶発性に満ちています。

しかしルークは、偶然、得られたレイア姫からのメッセージ(私は何を知っているか?)に導かれ、オビ=ワンと出会い(私は誰を知っているか?)、ジェダイの騎士としての使命を教えられます(私は誰であるか?)。

ルークは葛藤や不安を克服して、弱くて未熟な〈手段としてのわたし〉を手掛かりにして、ヒーローズジャーニーの旅に出るのです。

ボクたちには誰しも生きてきた経験があり、歴史があります。その中で培ってきた〈わたしは誰か?=ルーツ〉があります。好きなこと、きらいなこと、得意なこと、苦手なこと、したいこと、したくないこと、世界の見え方が変わった経験、喪失体験、幸せをもらった経験、口に出せない哀しい経験。

ボクは〈手段としてのわたし〉を〈可能態〉として理解しています。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、〈わたし〉が将来的にどのように成長しうるのか、どのような姿になるのか、その潜在的な資源や能力の可能性はいまは見えないけれども、いまの〈わたし〉に内在していると考えました。

未来の〈わたし〉の姿は、作られたもののひとつとして決定論的に決まっているわけではないのです。ましてや社会が常識とする〈良い子どもであり良い大人〉を目指して、自分探しの旅にでる必要はないのです。

偶発性に満ちた世界の中で、さまざまなセレンディピティに出会いながら進む旅路には、想像力がおよぶ限りにおいて、出会った人たちとの約束を違えない限りにおいて、たくさんの未来を創造し選択できる自由と可能性があるのです。

〈彼方での闘い〉を繰り広げながら真の目的や使命を察知し、新たなモノやコトを作り出して成長しながら、〈帰還〉へと向かうことができるのです。それはきっと愉しい旅路になるのです。

5.贈与経済のかたち

ボクはエフェクチュエーションの根っこに〈贈与経済〉のかたちがあると考えています。もっとも一般的には贈与経済と貨幣経済(=お金を介した交換)は相対立するものだと考えます。エフェクチュエーションは市場における貨幣経済によって立ちます。だから矛盾しているといわれかねないのですが〈贈与経済のかたち〉が潜んでいると思うのです。では贈与経済とはなにか、どのような形でエフェクチュエーションに潜んでいるのか、探っていくことにします

わたしは何ができるのか?

〈わたし(可能)〉に関わる問いは〈わたしは何ができるのか〉です。では未だ弱くて未熟なルークには、旅立つにあたって何ができるのでしょうか。それはレイア姫の救援の要請に私が応えると名乗り出ることです。

内田樹の著書[3]に、この連載記事を書くうえで大きな影響を受けた小論があります。この小論では、内田は読者からこのような問いを受けたことを書いています。

今の若者は「やるべきこと」、「やりたいこと」に関心を持つけれど、自分が「やれること(できること)」にはあまり関心を持ちたがらないようです。しかし、これからの世の中で生き残るために必要なことは「自分は何をやれるのか(できるのか)」を知ることではないでしょうか。

それに対して内田は、「やるべきこと」、「やりたいこと」を話すのが子どもで、「できること」を話すのが大人(=成熟・成長した人間)だといいます。

なぜならば「自分がやらねばならぬこと」、「自分がしたいこと」は個人的なことだからです。それに対して「自分にできること」は公共的(共同体的)なことです。

「朝、6時に起きねばならぬ」、「私はイカ墨スパゲティが食べたい」という人がいれば、「ああ、そうですか」、「ま、好きにしたら」といえばよいと内田はいいます。

しかし「私は英語ができます」という能力の申告は、「誰か英語を話せる人がいますか?」という求めがあるところでしか意味を持ちません。「・・・できる(可能)」という命題は、その行為を要請する誰かがいないと発しても意味がないのです。内田は「・・・できる(可能)」の文が意味を持つためには条件があるといいます。

  1. 他者がいる

  2. その他者が何かを欠如させ、それが満たされることを求めている。

  3. 「あなたの欠如を満たすもの、それは私である」という名乗りがなされる。

内田はこの3つが「人間の社会(共同体)」が始まる基本条件だといいます。人間が人間であるための基本条件であるとすらいいます。

ヒーローは助けを求める人の懇請に応じたときに、〈助けを求める人の懇請に応じるもの〉としてその存在をはじめて基礎づけられます。懇請に応じないで、「あ、ちょっとオレ、『自分がやるべきこと』や『自分がやりたいこと』があるから」とすたすたと通り過ぎるものは、決してヒーロー(大人)にはなれないと内田はいうのです。

レイア姫の救援の要請に名乗り出て旅立つ決意をしたときにはじめて、名もなきルークはその存在を基礎づけられて、成長の第一歩を踏み出したのでしょう。そしてその原動力のひとつになったのは、叔父と叔母を失った喪失体験があったのではないでしょうか。痛烈な痛みを経験したからこそ、他者の痛みが理解できるようになるという考え方には強い実感があります。

それにしても抽象的な話になってしまったかもしれません。ライター業に照らし合わせれば、この記事を読む読者はなにを求めてこの記事を読むのだろうか、はたしてわかりやすく書くことができているのだろうかと、常に自分に問いながら書くことだと理解しています。

わらしべ長者の物語

エフェクチュエーションの3つの原則を理解するうえで、日本の昔話『わらしべ長者』が示唆に富んでいるので紹介します。少し長いですが、参考文献[4]より引用します。

身寄りのない貧しい男が長谷観音のお告げで、「最初につかんだものをずっと大事にしなさい」といわれる。
男は目がさめたとたんに門でころび藁をつかむ。しかたなくその藁をもっていると顔にあぶがまとわりつく。男はアブを藁に縛り付けそれを回しながら歩いているうち、それを観た若君があの回っている藁がほしいという。
しかたなく蜜柑三つととりかえてもらいしばらく進むうち、今度は女房が歩き疲れてしゃがみこんでいる。供の者が「このへんに水はないか」と聞くので、近くにはないが水を汲んでくるあいだ蜜柑を食べていてくれと男はいう。女房はその蜜柑で喉をうるわせて感動し、男はお礼に布三疋をもらう。
次に男が会ったのは馬を所持している者である。この者はすばらしい馬をもっていてこれを都で布千疋に換えようかとおもっていたのだが、その馬が急に倒れ、やむなく別の駄馬をひいていた。男は話を聞き、布を提供して代わりに馬をもらう。
馬を引きながらそのうち都の入口にたどりつくと、ある家から急いで旅立つ者がおり馬をほしがられる。男が馬を渡すと、その者は自分はよんどころない急用でこれから家をあけるのだが、よかったらこの稲田を守っておいてほしいといわれる。そこで男はその家に留守居をし稲田を耕し一年ずつ収穫を得ているのだが、その者からはいっこうに音沙汰がない。こうして男はついに家持ち稲田持ちとなり、丹精こめた稲の収穫も格段のものになっていった。そこで人よんでこの男を「わらしべ長者」というようになった。

この昔話を読んでボクが思うのは、これはエフェクチュエーションの行動原則にのっとったヒーローズジャーニーだということです。

身寄りのない無一文のこの男は、はじめは貧しく弱い存在でしかありません。しかしこの男は【A】手中の鳥の原則にのっとって、偶然、つかんだ藁を小さな〈資源としてのわたし〉として旅立ちます。

そして当初、貧しく弱かった男は【B】クレイジーキルトの原則にのっとって、偶然、手中にした〈資源としてのわたし〉を、偶然、出会った者たちと交換を続け、〈手段としてのわたし〉を成長させていくのです。

これははじめの貧しくて弱い存在が、【C】レモネードの原則で、偶然のつながり(=関係性)における〈交換〉をとおして成長したことを意味します。

もうひとつ注目すべきことがあります。男は長谷観音のお告げどおり、持っているものを手放す必要はなかったのです。長谷観音のお告げに従うべきだからと、すたすたと通り過ぎても良かったのです。

でもこの男は〈資源としてのわたし〉を〈わたしにできること〉につなげ、他者の欠如を満たすのはわたしであると名乗りでています。それは若君の愉しみを満たすためでもあり、女房ののどの渇きを満たすためでもありました。

良い偶然も悪い偶然も成長の機会に変える。そしてその偶然を成長の機会に変えることができるのは、他者の欠如を目の前にして、その欠如を満たすことが〈わたしはできる(約束)〉と名乗り出ることなのです。

このセレンディピティの形に、ボクは〈贈与と返礼の互酬性〉の原型を見出します。エフェクチュエーションは市場経済の論理に従いますが、競争ではなくて互酬性的な〈つながり・約束と交換〉を重視するのです。

その意味でもエフェクチュエーションは、いままでボクたちが常識としてきたコーゼーションとは、真逆の論理に従っているのです。

6.不確実な状況をコントロールする

エフェクチュエーションの土台にある考え方

ここまで3つの原則を中心に、エフェクチュエーションの〈望ましいモノやコトを自発的に作り出す創造のプロセス〉の側面に焦点をあてて、その意味や意義をお伝えしてきました。

しかし実はエフェクチュエーションの5つの原則すべての土台に、その前提となる考え方が堅牢な地盤のように横たわっています。それが〈予測に頼らずに状況をコントロールする方法〉としてのエフェクチュエーションです。

コーゼーションは〈期待する結果〉を、達成すべき目的(目標)として設定するところからスタートします。その期待する結果は、ほとんどすべてが予測に基づく統計解析によることになるでしょう。例えばデータ解析をして、過去の売上の傾向分析から将来の売上を予想するといったことです。そうでなければ勘と経験と度胸によることになります。そして設定した目的(目標)を達成するための手段を選択するという順番です。。

事実、ボクはこんな事業計画書を山ほどみてきましたし、自分でも作りました。「ターゲット市場Aの現時点での市場規模をX億円とする。市場Aの年間成長率をY%とする。事業戦略Pによってわが社は市場占有率Z%を目指す。したがって事業参入年の売上規模はQ億円であり、年間R%で売り上げは成長する」とか。

一方、エフェクチュエーションは、〈手持ちの手段〉からはじめて、予測に頼らずに不確実な状況をコントロールしながら、新しい目的(目標)を創り出そうとするのです。

【A】手中の鳥の原則
どこか遠くの森の中にいるかもしれないたくさんの青い鳥よりも、手中にあってコントロール可能な青い鳥。

【B】クレイジーキルトの原則
どこかにいるかもしれないたくさんのパートナー候補や顧客候補よりも、目の前ですすんで参加を名乗り出るパートナー。そのパートナーが共同体の共同運営を担い、顧客になるかもしれない。

【C】レモネードの原則(セレンディピティ)
偶発的な出来事や知識・情報を避けるのではなく〈幸せをもたらす機会〉に変える。

それでは残るふたつの原則についてお伝えします。

【D】許容可能な損失の原則

コーゼーションは最適な戦略を選ぶことで、期待する結果の最大化に焦点をあてます。一方エフェクチュエーションは、どこまでの損失なら許容できるかを検討するところからはじめます。その許容可能な損失は〈わたし〉や共同体ごとに異なり、また取り巻く状況によっても異なります。

例えばある起業家が給料が毎月もらえる仕事を辞め、自身の会社を起ち上げることを考えているとします。このたとえは副業ライターが独立して、フリーランサーになるかどうかを検討している場合でも考え方は同じです。

コーゼーションに従えば起業家は市場調査や競合分析を行い、潜在リスクや期待できそうな結果を推定し、その後に起業するかどうかを決めるべきことになります。例えばこんな風に考えるかもしれません。

起業には1億円が必要だ。期待する結果にもとづけば、それを2年で回収できると思っている。自己資金が1千万円あるから、自分への2年間の給料1千万円を考慮に入れないにしても、8千万円の資金調達が必要だ。

コーゼーションに従う起業家にとっての創業の決断は、できるだけ優れた意思決定をするために、上記のシナリオを構成するさまざまなパラメーターを、可能な限り正確に分析し推定することを意味します。

一方、エフェクチュエーションに従う起業家は、このように考えます。

ボクはずっとこの起業を夢見ていた。だから2年間の時間と1千万円を投じて挑戦したい。最悪の場合には2年後に会社勤めに戻ろう。もし、いま、やらなかったとしたら、いつやるんだ。

この起業家は【A】手中の鳥の原則と【B】クレイジーキルトの原則を従えてヒーローズジャーニーに旅立つのです。

【E】機上のパイロットの原則

コーゼーションは不確実な未来の予測可能な側面に焦点をあてます。この考え方の前提は〈未来が予想できる範囲において、われわれは未来をコントロールできる〉というものです。

一方エフェクチュエーションは未来は予測できないとしても、コントロール可能な部分はあると考えます。この考え方の前提は〈未来がコントロールできる範囲においては予測は不要だ〉というものです。

サラスバシー教授は興味深い研究成果を手にしました。それは医療診断や自動運転、航空機のオートパイロットなど、AIの方が人間の意思決定よりも優れていることを示すデータが得られた後ですら、高い知能を持つはずのAIに判断や操縦を委ねることを躊躇している人たちが居る事実です。

航空機に高い知能を持つAIによるオートパイロットの機能がついている事実は好ましいが、万が一の時には、パイロットがいる事実のほうがもっと好ましいと考える人々がいるのです。

熟練起業家(熟練パイロット)は、予測に頼らないことによって不確実性に対処します。その時の偶発的な状況において何が合理的な行動か、つまり何が実行可能で何が実行に値するかの判断力を、経験にもとづいて体得するのです。

まず行動に移すことができることは何かについての仮説を立て、世界への働きかけや他者とのやりとりを通じて、それを具現化し世界の方を書き換えるのです。

【E】機上のパイロットの原則は、偶発性にあふれる世界で予測に頼らずに。未来をコントロールするための行動原則なのです。

7.ではエフェクチュエーションをどのように適用すれば良いのだろうか?

ボクはエフェクチュエーションにガイドとして伴走してもらうことによって、いまのボクたちを取り巻く閉塞状況にゆらぎをもたらすことができると考えています。その観点から、エフェクチュエーションの意味や意義を探ってきました。

エフェクチュエーションは、新しいコトをはじめる起業家やスタートアップ、フリーランサーとして独立すべきかどうかを考えている副業ワーカー、どのように歩みを進めればよいのかに悩むフリーランサー(ボクです)にも、拠り所になる行動原則であることをお伝えできていれば幸いです。

でもむしろ疑問がわいてきた方がいらっしゃるかもしれません。たとえば十分に成熟し確立した市場において、コーゼーションで事業を展開している企業には、エフェクチュエーションは必要なのでしょうか。

連載第4回目以降では、さまざまな状況にエフェクチュエーションを適用するための考え方や事例を書いていく予定です。たとえば強い既存事業を確立した日本企業が、DXをともなうビジネスモデルの新規創造に成功した事例をなどを書いていく予定です。

第3回までの本論がどうしても長文になってしまいごめんなさい。それにもかかわらず読んでくださいましてありがとうございます。それでは連載第4回でもお会いできれば幸いです。

いままでのまとめ

これまでに述べてきたことをまとめると、このふたつのことになります。

デジタル敗戦問題の実態は〈アナログ手作業問題=デジタル化の遅れで手作業を強いられたことにより起きた現場の混乱〉である。しかしこの問題の解決は、海外企業や行政組織が当たり前のように行っている〈業務マニュアルを自分で作るプラクティス〉を身につければ難しくない。事実、日本でも2006年に、千代田区役所が業務部門主導で業務マニュアル作成(業務要件定義)をやりとげ、プロジェクトを成功に導いた事例がある。しかしボクたちは、この問題の重要性を見過ごしてきた。いま、日本でも関心が高まっている内製化の第1ステップとして、業務マニュアルを自分で作るプラクティスに踏み出すべきだ。

しかしデジタル敗戦問題の背景には深刻な問題が隠れている。DXの定義は人の数ほどあるが、本稿におけるDXとは〈ITを使った新しいビジネスモデルを作り出すことによって新しい市場や収益を生み出す活動〉である。米国は1990年代半ばより30年間をかけてDXを進化させ続けてきた。一方、日本経済の中核たる〈ユーザー企業のビジネスモデル+日本型SIビジネスモデル〉は1980年代から形を変えずに存続しており、〈ビフォアーDX〉の状況で安定している。また日本のスタートアップの新しいビジネスモデルを作り出す活動の活性度も非常に低い。このような日本の停滞状況を打破する糸口として〈新しい方法としてのエフェクチュエーション〉が、いま、必要である。

つくるはわかる・わかるはかわる

既に述べたとおり、つくるはわかるで、わかるはかわるなのです。

誰もがそれを自分で作ることによって理解します。手を動かして、身体を動かして、作ってみることで、やってみることで理解するのです。だから業務マニュアルの書き方は、業務マニュアルを書いてみなければ本当の意味ではわかりません。業務マニュアルを書く〈方法〉のガイドは必要なものの、実際に書いてみることで身体的にわかるようになるのです。体得できるのです。

業務がわかるようになると、その業務の内容が変わって見えるに違いありません。つまりわかるはかわるです。何が変わったのでしょうか。それは業務マニュアルを書いた人の能力です。

業務マニュアルを作るプラクティスは、書いた人の見える化の能力向上に直結します。そして業務が見えるようになると、業務のあるべき姿もみえるようになります。想像できるようになるのです。業務マニュアルを書いた人は、書く以前とは変わります。業務改善が〈できる〉ようになるのです。

デジタル庁が推進している標準化は〈システムの標準化〉に留まっているという意味で不足です。しかし仮に〈業務の標準化からのシステムの標準化〉という正しい手順をとっていたとしても、それを実際に導入する業務部門に、少なくとも一人は〈業務マニュアルを自分で作ることができる人〉がいなければ導入は難しいことになります。なぜならば、何をしたらよいかわからないからです。

新しいビジネスモデルを作るプラクティスについても同じことです。

作られたものから作るものへ

「作られたものから作るものへ」。このマントラは、実は哲学者の西田幾多郎の言葉です。西田幾多郎の著書はとても難解なので、ここでは村田純一[1]の助けを借りて言い換えを試みます。

  1. 人間の物を作るという行為(作るものへ向かうという行為)は、いま、ここの現実世界を出発点とするものの、それをいったん否定して、新しい現実世界を生み出す創造的な活動である。

  2. 既に作られた現実世界(作られたもの)を疑うことなしに受け入れることは、いま、ここの現実世界を否定することを否定することである。作るものへ向かうという創造的な行為を否定することである。

やっぱり難解です。しかしこの連載記事では、以下の事例でこの考え方をご紹介してきました。

  1. アマゾンのジェフ・ベゾスは、30年間にわたって新しいビジネスモデル(モノやコト)を作り出し続けることによって、それまでの現実世界を否定し、新しい現実世界(モノやコト)を生み出してきた。新しい現実世界とは、新しい市場であり、新しい社会の仕組みであり、新しい価値観(たとえば新しいCX)である。

  2. もちろん少数の例外はあるものの、日本はDXの文脈において、30年間にわたって新しいビジネスモデルを作り出すプラクティスが停滞してきた。その一方で米国を中心とした海外企業(GAFAM)から輸入したビジネスモデルによって、ボクたちの現実世界は大きく作り変えられてしまった。その結果として日本企業の主流のビジネスモデルは、激変した社会の仕組みや価値観に適応不全を起こしている。その意味でスケールの大きな問題に直面している。

つまりボクたちの大勢を占める日本企業には、自らビジネスモデルを作るプラクティスが必要だというのが本稿の提案です。だから本稿では、そのプラクティスをガイドする〈新しい方法〉が必要だと提案しています。

出所

[1]『技術の哲学-古代ギリシャから現代まで』村田純一著、講談社学術文庫2023年
[2]『情報環世界』渡邊淳司、伊藤亜紗、ドミニク・チェン、緒方壽人、塚田有那ほか著、NTT出版2019年
[3]『困難な成熟(文庫版)』内田樹著、株式会社夜間飛行刊2017年
[4]『ボランタリー経済の誕生』松岡正剛、金子郁容、下河辺淳ほか著、実業之日本社刊1998

連載記事一覧

[連載04]押しの経済時代のエフェクチュエーション
[連載05]生成AIは神か悪魔か?芥川賞作家の神回答がツボにはまった件
[連載06]劣等感の真実
[連載07]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション① - 絶望感を克服して愉しく生きる方法
[連載08]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション?- 収入の不安定さをコントロールする
[連載09]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション3:目的や目標ではなくて手段からはじめた方が幸福になれる理由
[連載10]幸せの青い鳥の原則
[連載11]noteとクラウドソーシング、こたつ記事ライターがめざすべきなのはどっち?
[連載12]noteがブルーオーシャンになる理由
[連載13]新しい記事を書くってなんでこんなに愉しいのだろうか?
[連載14]ライターが「やりがい搾取」を感じるとき


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