見出し画像

ホロコースト否定論に気をつけろ⚠️

人類全体の悲劇の記憶となっているホロコースト。
それは例えイスラエルが暴力的であっても変わりません。

2度と起こしてはならないホロコースト。
しかし、「ホロコーストなどなかった」という否定論が相変わらず絶えません。

ホロコースト否定論のリストは限りなく長くなっていますが、代表的なものはこれらです。


その1 単刀直入の否定論

最も単純であり否定論者がしばしば使う言葉は「嘘」「自作自演」「真実の歪曲・ねつ造」などです。
たとえば、ホロコーストは連合国の宣伝機関が作った嘘、1938年の水晶の夜の暴動はユダヤ人運動家の自作自演、アウシュビッツにガス室はなくユダヤ人犠牲者は5万人に過ぎなかったなどです。

このタイプの否定論は事実の否定にとどまらず、勇気を出してトラウマ記憶をたぐり寄せ、証言する被害者を侮辱し、記憶を抑圧するのです。


またこうした否定論は加害集団だけでなく被害集団でも見受けられます。
犠牲者意識ナショナリズムの道徳的正当性を信じ切った犠牲者民族であるほど、自分たちにも加害者の側面があったとか、加害者にも被害者の側面があったという事実を受けとめることができません。

その2 疑念の否定論

ほとんど確認されていないうわさを根拠に疑わしいと主張するだけで、信じる人と否定する人を感情的に対立させます。
疑念を提起できれば半ば成功であり、根拠がなくても疑心が広まったら大成功です。
事実より宣伝効果の方が大切なのです。ホロコーストの記憶の歴史的な真正性を傷つけ、信頼性を揺るがせて反論しようというときに「疑念」は最も手軽な道具として頻繁に使われるのです。

近年のソーシャルメディアの発展でネット空間は否定論の温床となっています。
主張が事実無根であると判明したからといって「疑念の否定論」は消えません。
古い疑念を一皮むくと、新しい疑念が出てきます。
いくら皮をむいても疑念にはきりがありません。

すでに証言に対する信頼は失われつつあり、証人は大きな傷を受けているのです。
疑念の否定論には強い悪意があります。


その3 実証主義的な否定

このタイプの否定論は根が深く「科学」で武装しています。
科学的否定論の最大の逆説は歴史的な証拠隠滅を図った者が厳格な実証主義を叫ぶのです。
彼らが「証拠、証拠」と叫ぶのはそんなものはないと確信しているからです。
ホロコースト生還者の記憶の一部が不正確であるとおおげさに主張して証人の記憶全体が主観的、感情的で政治的に歪曲されたりねつ造されたりしているから信じられないと主張するのです。
文書資料へのこだわりも実証主義的否定論者の特徴です。
加害者がアーカイブと歴史の物語を支配しているのに対して被害者には経験と声しかありません。
否定論者はそのことをよく知っています。

慰安婦制度を否定する人々の論理も似ています。
加害者の犯行を照明する文書記録がないことで慰安婦は事実ではないとして、被害者が偽証をしていると決めつけるのです。

否定論者は自らの主張を立証するためでなく、相手の主張に反論するために実証主義を用います。
実証や科学が必要なのは自らの否定論を正当化するイデオロギーとして必要なときだけなのです。だからこそ陰謀論が横行します。
元慰安婦の証言は金目当ての嘘であり日本をおとしめようとする『国内外の反日勢力』が背後にいるという具合です。



その4 批判的記憶から小さな誤りを見つけ歴史的な真実性に疑問をぶつけることで証言全体に嘘だという印象を抱かせる否定論

たとえば南京虐殺の否定論です。
部分的な間違いを強調することで全体の根拠を否定する方式です。
否定論者の実証は虐殺の犠牲者が総計47人だったとか、証人として戦犯裁判に呼ばれたジョン・マギーが直接見た虐殺は3件だけだったというものです。



その5 記憶の否定論

アイヒマン裁判でホロコースト生存者たちはトラウマに打ち勝って胸の底に閉じ込めていた記憶を証言しました。
自分たちの話に誰も関心を持ってくれないし、信じてもくれないだろうという恐れから彼らを解放したのです。
彼らの証言は世界中の人々に感動と共感をもって受け入れられました。
犠牲者の「声」が文書資料に劣らず重要だと再認識させる契機となったのです。
犠牲者の声が前面に出るのに合わせ、過去を認識する中心が、文書から証言へと移りはじめ、記憶の重要性があらためて浮かびあがりました。
文書資料に劣らず、証言の内なる歴史を重視する記憶研究が歴史認識と再現の民主化を促進しました。


そして、否定論の核心はその記憶を殺すのです。
人間としての尊厳を無視され、非業の死を遂げた犠牲者の呼びかけに応じようとする記憶。否定論者はその記憶を否定することで呼びかけに応じる責任を回避し、「他者の正義」を否定します。
記憶を殺すのは犠牲者をもう一度殺すことであり、虐殺を忘れることは再び虐殺することです。
記憶のジェノサイドこそジェノサイドの最終段階です。


執筆者、ゆこりん

参考文献
「犠牲者意識ナショナリズムー国境を越える「記憶」の戦争」林 志

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?