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悪の凡庸さーアイヒマン裁判を傍聴して ハンナ・アーレントの思想―その3―

映画「ハンナ・アーレント」2013年 独


ハンナ・アーレントは、1961年、エルサレムでナチの戦犯アイヒマンが裁判にかけられるということを知り、アメリカの週刊誌「ニューヨーカー」に裁判レポートをしたいと申し出ます。
この提案は受け入れられ、アーレントが裁判を傍聴したレポートがこの雑誌に掲載されました。

この傍聴記は大きな反響をよびましたが、そのほとんどはアーレントへの激しい非難でした。
なぜこのような激しい非難を受けたのでしょうか?


その理由は、アーレントから見てアイヒマンがどんな人間だったかということです。

アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊中佐で絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任者でした。
この世の地獄を作り出した彼は根源悪の化身、ぞっとするような悪魔に違いないと世間の人々もアーレントも思っていました。

しかし、実際のアイヒマンは、自分の出世に熱心で、上からの命令で与えられた仕事を忠実にこなすだけの小役人のような人物だったのです。
アーレントは、このことを「悪の凡庸さ」と表現しました。
そしてこの表現のために、ナチスの悪を過小評価するものだと世間から非難されたのです。
もちろんアーレントはこの『凡庸』という表現でアイヒマンやナチスの悪行を免責するつもりはありません。

むしろこのようなサディストでも極悪人でもない一般人に似たノーマルな人物が、なぜ全体主義の巨大悪を実行できたか、その理由を明らかにしようとしたのです。
なぜなら、ホロコーストの実行者が異常なイデオロギーの怪物ではなく私たちの隣人でもあるような一般人であるなら、ホロコーストのような巨悪はいつでもどこででも起こりうることになってしまうからです。


アイヒマンの第一の特徴は、ごくまっとうな人物でした。
アドルフ・アイヒマンは、ドイツ西部のゾーリンゲンで生まれ、父親は電機会社の簿記係。
両親ともに敬虔なプロテスタントで典型的な中産階級の一家でした。
アイヒマン自身も、ナチスの親衛隊に入党した頃は石油会社のセールスマンとして真面目に勤務していました。

第二の特徴は、彼は想像する力が著しく欠如していたことです。
彼は自分のしていることが何に繋がるかがわかっていなかったし、他人がそれをどう思うかについて考えてみようともしなかったのです。

第三の特徴は、思考するという営みを停止していたことです。
彼は、自分は組織の「歯車」にすぎなかったと何度も主張しました。

思考の停止と想像力の停止。
この二つが悪の凡庸さの本質であり、他人の立場に立って考えたり、想像したりすることをやめたとき、誰でもがアイヒマンのような犯罪者になってしまうとアーレントは考えたのです。


アーレントによると、人間の心の中には、もうひとりの「わたし」がいて常にこの「わたし」と対話していて、孤独のうちでの自己との対話こそ思考の本質的な特徴なのです。

そして、この「もうひとりの自分」が良心とよぶものであります。
人間は、孤独の中でこの良心に照らして自己について点検しなくてはならないのです。

誰でも自己のうちのパートナーを持っており、対話をしながら自己の行動を決めている中、ナチスへの協力を拒んだ人もいたのですが、一方でアイヒマンのようにナチスに協力した人がいました。


全体主義の犯罪に手を貸すことを防ぐためには、どのようなモラルが必要なのでしょうか?

アーレントはカントの思想をもとに考えました。
そして明らかにしたのは、利己主義と自己愛を否定し、想像力をもって他者の立場に立って考え、思考における自己の対話のパートナーに誰を選ぶかを熟慮するという原理が大切ということです。


現代社会でも常に「思考する」ことを忘れず、他者との関係を大切にして生きていかないと思わぬ悪の罠にはまり込んでしまうかもしれません。
身近にもいじめやヘイトスピーチ、SNSでの中傷など、他人を平気で傷つける事件がいっぱいあります。
道徳心のない、他人の気持ちを考えない人間が増えているように思います。
きっとそのような人たちは、全体主義の時代になったら簡単に「アイヒマン」になってしまうでしょう。

想像や思考をしないと、他人へ優しくもなれません。

師走でバタバタと忙しくなりがちですが、考えることを忘れず、想像力と他人への優しさを持って過ごしたいですね。来年も。

<参考文献>


執筆者、ゆこりん

 

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