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「まなざしの地獄」に「壁」を感じ、それに自分は関与していないと言い切れない。

それは、図書館から予約の本が届いた知らせだった。すぐに思い出せない、予約した記憶が薄れているくらい時間が経過していた。

僕は、半信半疑ながら図書館へ今年一回目の訪問をした。そこにはいつもの司書がいて、僕を認めるとそっと目配せし僕に話し掛けて来た。

「あなたを呼んだのは私よ。なぜか分かる?別にあなたに会いたいワケじゃなかったのよ」

僕は意図せず動揺したが、話の続きを促した。

「あなたの読書に欠かせない大工さんは元気かしら?」

「その問いに答える必要はないけど、君が僕を呼んだ理由がわかった。全てが上手く回るように、このタイミングで来るのは最初から決まっていたみたいだ」

僕は司書から「まなざしの地獄」を受け取ると最後にこう伝えた。

「大工は帰ってくるみたいだ。その先の事は知らないけどね」

話は、昨年の夏に遡る。僕は高度経済成長期末期にあたる1968年から72年までの約5年間の文学アンソロジーを読んだ。それは、その時代を象徴するような混沌とエネルギーに満ち溢れている文学で形成されていた。

僕はこの時代のエネルギーの源流になるような背景を知りたかった。ちょうどその頃Instagramを休んでいた大工が私にまた、未知なる世界を提案してきた。

ひとつの時代としてみるなら橋爪大三郎さんや見田宗介さんなど、社会風潮とせず真正面から研究された社会学者の方々がいらっしゃるかもしれませんね。

経済哲学では宇沢先生などが、あらゆる運動で行動されていたかと思います。
また戦後思想の考察を文学から洞察した加藤典洋さんなど。

文学の背景となる社会を見ると、なぜ今の
さまざまな社会的問題があるのか少し解像度あげたり、視座が高くもなり面白いかも知れないですね😀

きのこさんも触れられてらっしゃる永山死刑囚のことを軸に、先日お亡くなりになりましたが、
社会学者の見田先生が本を出版されています。
社会学という大きな枠だけで見るのはリスクが
ありますが、永山氏の生い立ちなども踏まえて、サルトルのまなざしを受容体としてきちっと
書かれており、かつ非常にコンパクトな論文です。

『まなざしの地獄』

以前インスタでも感想を稚拙ながら書きましたが、noteには書いておりませんでした。
貪欲に教養を身につけようとする永山氏の姿も
記述されており、「学び」についても、
「貧困や格差」についても考えさせられます。
見田先生の論文を通して、現代社会を考えさせられました。

大工が社会学にも精通していた事を知り僕は、
「こんなんどうしろって言うねん‼️」
と関西弁でツッコミを入れたくなった事案

僕が求めている以上の的確な世界をくれる大工は、時代を考察している社会学からの論文を薦めてくれた。これを皆様はどう思うか知る事は出来ないが、僕にとっては、今まで一人も周りに読書仲間がいなかった事実から脱却し、且つ的確に道を教えてくれる一回り以上も年下の大工の存在に心から救われている最たる事象である。

だから僕は運がいいと本気で思っている。

そして、年明けにこの本を読みたかったタイミングだったのは大工が安部公房の「壁」の考察で他者のまなざしについて書いていたからだ。

僕は大工のこの一言を読んだ時に、「まなざしの地獄」がなぜだか頭に浮かんだ。まだ読んでもいないのに。

そして僕はちょうど「壁」を読了した後に図書館から「まなざしの地獄」の連絡が来たのだ。

結論何が起きたかというと、「まなざしの地獄」を読了した後の「壁」の再読は、より深みに僕を連れていってくれた。

「まなざしの地獄」は、永山死刑囚の殺人の根拠ともなり得たのは、時代背景が関係しているのではと分かりやすく説明してくれている。

説明とは簡単に言えない根拠が並べられていて、恐ろしくなる。この本の内容をそのまま心に取り込んでいくのは大工の言う通り「リスク」がある。ある程度、第三者だと思うしかない。

差別や偏見に晒される「他者のまなざし」は、容赦なく冷酷に突き付けられる。高度経済成長期と名前ばかり目について、その裏にある少年労働者や職場環境、労働環境になど疑いもしなかった。

良い言葉の裏にはその倍は弊害が起きている。それを浴びるのは、望んでそうなりたかったワケではない弱者だ。その時代のために翻弄された若者も成功者の裏でいっぱいいた事を想像しなければダメだ。

永山死刑囚は、「他者のまなざし」や「他者の管理」に惑わされない壁に囲まれた牢獄で、ようやく孤独の中に本当の安堵を感じ、本来自分がしたかった読書や勉学に没頭し小説家になり賞も受賞している。

当人の事はいっぱい記録が残っているので気になる方は調べてみればいい。

犯した罪はダメな事だが、それだけではなく社会構造もおかしいと教えてくれる本だ。

この本を読了したあと、これをどう捉えたらいいか、どう考えた方がいいか。かなり悩んだが、大きな出来事の中の小さな問題は当たり前のように排除されている現実があったという事だと思う。

これは、今なお深い問題だと思う。言葉では、「貧困、弱者、格差社会」との文字をよく見かけるが、その当事者を目の当たりにした時のまなざしに差別や偏見は一切ないと言い切れるだろうか。

誰かが描いたモデルケースに当てはまらない、はみ出した人や物へのまなざしは、

本当に相手に何も思わせないまなざしでいるのだろうか。

目は口ほどに物を言う。

その後に再読した安部公房は、まさに他者のまなざしを感じとって、他者からどう思われるかが生きていくには弊害であり、必要であると文学に昇華させて警鐘しようとしていたのではと感じてしまう。

なんのはなしですか

年明けの難題に無性に大工に会いたくなった。

自然と涙は流れたが、僕のその涙に確証が持てない。その裏に存在する自分の後ろめたさもあるのが全然否定出来なくて、感情がひっちゃかめっちゃかである。

ただ僕は、吐き出す所とそれを聞いてくれる人がいることが救いだろう。やっぱり運がいいね。

だから読書が好きである。

普段、読書しない方も小説とは違うわかりやすさがあるので、突き付けられる現実を一度体感してみてはいかがだろうか。

もうね、大工と私の記録はマガジンにしました。今後も増えるし、もしかしたら何かしらの建築が完成するかも知れないのでね。

よろしかったら一緒に旅をどうぞ。





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