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鳥と歯と率と

世界の問題に向き合うことと、自分の問題に向き合うこと。
この距離感について前から考えている。

教養をつけることは、自分の一人称視点に加えて、三人称視点、または俯瞰した視点を習得するようなイメージもある。しかしながら、いくら俯瞰的視点を身につけも、自分の歯が痛めば、視点は一気に一人称視点に戻される。
自分の歯が痛いのだから仕方がない。自分の歯が痛いのに、遠い海の向こうの問題を考えられる、こともあるだろうけれど、それは簡単なことではない。この人間らしさがさまざまな賢人たちが考え出した論理的なシステムを無効化したり複雑化しているのも人間の面白みのひとつかもしれない。
または、ある種そうした使命感を獲得できていれば、逆に、自分の歯がズキズキ傷んでも遠い国の人々の悲しみに心を寄せることもできるかもしれない。自分の痛みの方がどこか遠くへいくのかもしれない

と思うとこれは卵が先か鶏が先かの問題で、自分の思考ベースをどこに置くかというセッティング、生き方の話になる。子供が書かされる「思いやり」という書道の題字はあなどれない。

ところで日本の投票率の低さについて、義務投票制度を導入した方がいいか?という問いがあった。

なんならしたほうがいいと思った。法もルールも移り変わるものだし、現時点で投票率に問題があるのならば、とりあえず一旦導入してみるのは良いのではないか。

日本はどこか、何かを変えるのに時間がかかりすぎる。コロナパンデミックのような世界中との関係が濃厚な有事のときくらいしか変化のスピード感は変わらない。この「変わらなさ」がまたよりいっそうの「どうせ変わらない」という政治への無関心へと流転し、無関心と無変化の地獄のループが力強く形作られている気がしてならない。

SNSで流行り続けている踊ってみた、歌ってみた、などの「とりあえずやってみた」系のコンテンツの隆盛は、この無変化という社会に対する日本人のリアクションのひとつなのではないかとさえ思えてきた。

日本人も心の奥底では変わってくれと期待しているし、願っているが、元来のお上制度や自然災害だらけの国土など、自分ではどうしようもない系国家である日本に生きる者としてのライフハックが、一種の「あきらめ」とその諦めの中で楽しむための「やってみた」系コンテンツなのかもしれない。

アメリカの大学での運動がニュースでやっていた。それを眺めるにつけ、あることにちゃんと反応して、怒って、叫べて、どこか羨ましくなった。コロンビア大学。

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