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何気ない人種差別#2 | 日本に差別は存在しないという幻想

 前回に引き続き、今回の記事では、NIKE の人種差別をテーマにしたcmを軸に、「日本人は人種差別をしない」という言説は果たして本当なのか、そして、差別しない人というのは差異に鈍感な人なのか、ということについて考えていきたい。

 昨年11月に公開されたこのNIKEのCMは、公開後多くの反響と賛否両論を招いた。

 その反応について、批判する人の意見は、大きく二つに分かれていたように思う。
1.「日本にはこのような差別は存在しない(あるいは少ない)のに、あたかも事実のように捏造している」、という批判。
もうひとつは、
2.「NIKEという人種差別企業(ウィグル人強制労働問題など)が人種差別を批判するcmをつくるというダブルスタンダードがまかり通っている」、という批判。

他にも、炎上商法的に差別問題を扱って売り上げを伸ばそうとするやり方への批判、在日朝鮮人の差別問題というセンシティブな話題を外国企業が安易に用いることへの批判、このCMで描かれている在日外国人のエピソードは、舞台設定において事実とやや異なっているという批判...など様々だが、今回は上記の2つに的を絞って述べていきたい。

( *なお、この記事はNIKEのCMを皮切りに日本における差別について取り上げたものでありますが、NIKEのCMや企業姿勢に特別な賛意を示す意図はありません。)

「日本人は人種差別をしない」というのは本当か?

 まず、一つ目の「日本に差別は存在しない」という点から見ていこう。

 人口の2%程度しか外国人がいない日本においては、そもそも人種に対する意識が極めて低い。例えばブラックフェイス(黒人以外の人種が肌を黒く塗ること)やホワイトウォッシュ(白人以外の役柄に白人俳優が配役されること)は人種差別的であるというのは自明であるが、これがなぜ問題であるかを説明することはとても難しいのではないだろうか。近年ではアカデミー賞でも作品賞の選考基準に多様性ルールが採用され、賛否が分かれている。ただ、これらの人種差別問題は、どこか遠い場所での出来事で、日本には関係がないという感覚の人も少なくないはずだ。しかしながら、日本には差別は確実に存在している。

 コメディアンとして活躍するナイジェリア系アフリカ人のアイクぬわら氏といえば、一度はテレビで見たことがあるだろうか。彼がHBOのインタビューに答えた動画では、日本人の”人種”への考え方が端的に言い表されている。

 アイク氏は、動画の中で、「電車で座った時に、隣の席が空いてるのに誰も座らない。...日本人は人種差別主義者ではないと思う。ただ”知らない”だけなんだ」と語っている。

 この指摘はある意味で正しく、そして重い指摘であると思う。日本での差別は、多くの場合無知、あるいは恐怖や不安から起こる差別が多いのではなろうか。「電車で座った時に、隣の席が空いているのに誰も座らない」のは、周りの人が、「なんとなくそうしているから」で、「日本人は恥ずかしがり屋だし、英語も喋れないから」と、シャイであることで不本意に差別を招いているのだと半ば容認されている向きがある。

 しかしながら、日本において、無知ゆえに引き起こされてしまった差別もある。2017年に大晦日の番組で黒塗りが行われたり、一昨年の日清のcmでは大坂なおみ選手の肌が白く描かれ問題になっていたりした。「無知だから」という言い訳は、もはや通用しない段階に来ている。日本は、潜在的に血統を重視する考え方がいまだ根強いとも思われる。見た目が外国人っぽかったりすると例え国籍が日本でも「日本人じゃない」と言われてしまったりする。

 2015年にミス・ユニバースに日本代表に選ばれた宮本エリアナさんは、「日本人の見た目ではない」としてバッシングを受けた。別の動画では、「ハーフじゃない見た目ザ・日本人ていう和風美人がよかったな〜」「綺麗だけど日本人ではないでしょ」などのコメントが寄せられていた。

 その反面、外国籍で活躍している日本の血を受け継いだ人物は、「日本人」として扱われたりする。カズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した際も、ニュースでは連日「日本人がノーベル賞を受賞」と連日取り沙汰されていた。ノーベル賞では出生地主義を取るので、5歳で渡英し日系英国人として生きる彼のことを日本人としてカウントするのはわかる。

 しかし、見た目が日本人っぽいから/日本の名前だからという理由で、別の国籍を持つ人も日本人と判断されるのであれば、宮本エリアナさんが「日本人ではない」と批判されたのは、結局見た目の問題にすぎなかったのか、という気がしてくる。

 個人的な考えでは、人種のアイデンティティと生まれ育った地のアイデンティティは、後者の方が色濃く出ると思っている。たとえば親が両方日本人であっても、生まれた時からアメリカに住んでいる人は、「日本人」よりも「アメリカ人」であるという意識が強く出るだろうし、逆も然りである。それを端的に表しているのが下の動画である。

 その一方で見た目でや名前で「外国人」と判断されてしまうと、その人は生まれ育った地域に帰属意識を持つことができない。動画の中では、両親がアメリカ人で日本で生まれ育ったカイラが、「これいうと批判が来るけど、日本にはすごく差別がある...郵便、銀行、不動産」と語っている。

 「日本では人種差別はない」と多くの人が思っているために、#Blacklivesmatter が流行った時にも、(もちろん問題だと捉えている人もいたが)「日本にアメリカの問題を持ち込まないでくれ」「日本では黒人差別はない」という批判が起こる。”日本では差別はない”という幻想を信じ込んでいるからこそ、差別に立ち上がろうとする人を冷笑したり、「余計なことをするな」と罵倒したりする風潮になってしまう。

 大坂なおみ選手が昨年の8月27日に、黒人の射殺事件を受けてテニスの試合をボイコットした際も、「やっぱり日本人じゃなかった」「スポンサーに対して迷惑」「こんなことしても無駄」「警察に殺されるようなことをした本人が悪い」といったコメントが彼女のTwitterのリプライ欄に書かれていた。射殺された黒人に犯罪歴があったかどうか、ということはここでは細かく触れない。彼女は殺された黒人たった一人のためという以上に、これまで理不尽を受けてきたすべての黒人のために立ち上がっているということを念頭に置かなくてはならない。

 彼女はまたこうも語っている。「私のような外見をして日本に住んでいるすべての日本人の皆さん、そしてたとえそれが何気のない差別(マイクロアグレッション)ではあったとしても、レストランに入ると英語メニューを渡されてしまうような皆さんに、機会を提供したい」

差別しない人は、差異に鈍感な人か

 個人的な考えでは、人種差別には二種類あると考えている。一つは差別意識に鈍感すぎるために起こる「無知ゆえの差別」で、もうひとつは、悪意をもって起こる「意図的な差別」だ。

 悪意ある「意図的な差別」は、判別がしやすい。言ってる方も自覚をもっているのだから。一方で、「無知ゆえの差別」は差別している方もわかっていないのだから、見分けづらい。

 たとえばアメリカのポリティカル・コレクトネス的な価値観の”流行り”は、一見、差別を無くそうという方向に舵を切ったように思える。一方で、アメリカのそうした潔癖主義的な側面の反動が、トランプ大統領のような差別主義者を体現した大統領を生み出した、という考え方も否定できない。

 ここで提示したいのは、「違いに敏感な人」ほど差別的になり、「違いに鈍感な人」ほど差別をしないのではないか?という問いだ。

ここで少し、『寛容の哲学』に書かれている記述を引用させて頂く。

ー つまり、同一性はこれを等しく尊重し、差異についてはそれに対して細やかに承認する、ということが求められるのだとして、しかし、両者は両立しないのではないか、という問いが立ってしまう。障害者を差別しない人というのは、障害者に固有の差異を伴う欲求には鈍感な人なのではないかー例えば、そういう問いだ。(中略)出発点には、「差異に対して盲目」というテイラーの指摘がある。等しく尊重しようとすると、差異を承認できなくなる、差異を承認すると、等しく尊重できなくなる、そういう、二者択一的関係が成り立ってしまうのではないか、という問いが立つのである。
藤野寛の「寛容の哲学」p97

 例えば、「あなたも、私と同じ人間だよね!」と言う人がいたとする。これは私とあなたを「同じ人間」という大きなくくりにすることで、差異をなかったことにしている。ある意味、とても大らかなものの考え方であるとも言える。しかしここには隠された問題がある。先の引用にもあるように、「等しく尊重しようとすると、差異を尊重できなくなる」ということだ。

 「人類皆兄弟、私もあなたも皆同じ」と違いに目を瞑ると、実際に起こっている個々の問題までもなかったことにされてしまう。本当に人類が皆クローンのように同個体であれば、何も問題はないだろう。しかし、人種の違いや性別の違いなどをゼロにすることなどは不可能だ。
 「差別だと言っている方が差別だ」という論法で差別を正当化しようとする人は、往々にしてこうした考え方があるのではないかと思う。つまり、「人間は皆同じ」なのだから、「これは差別」だといって「違い」を持ち出すこと自体が間違っているのだと、つまりそういう考え方だ。

 これに反論するために考えなければならないのが、構造的差別、という概念だ。例えば黒人、女性、障害者といった、これまでマイノリティとして教育機会や就労機会を奪われてきた人が、今な社会の仕組みの中で理不尽を被る、いわば”見えない”差別だ。そしてそれは根本的な解決が非常に難しい。例えばあなたが交通事故で、運転手の過失で車にはねられ突然死んだとして、支払われる賠償金は女性と男性で大きく異なる。なぜなら女性の生涯賃金は、男性と大きく異なっているからだ(参考)。

 黒人差別問題についても同様のことが言える。あまりにも長い差別の歴史が続いているせいで、教育、就労機会において、歴然とした差が出てしまっている。(黒人差別の歴史についてはこちらを参照ください)これはもう個人の意識でどうこうできる問題ではない。

 他にも、一昔前の日本において障害を持つ人が国から出産することを認められなかった旧優生保護法なども構造的差別のひとつだろう。もし障害を持った人が自ら子を産むのを諦めたとして、それは主体的な選択ではなく、国や社会から押し付けられたものであると言える。

 これらの構造的差別を目の前にして、「あなたも私も同じ人間だ」ということは到底できない。
何らかの属性で生まれた時点で社会から不利益を被っている人を、そうでない人と全く同じとすることは、差別になりえてしまう。そのため、差別是正措置(アファーマティブ・アクション)を用いるなどして、積極的にその不平等な穴を埋める必要がある。

差別のもつ種類について、もう少し細かく見ていこう。出口真紀子氏の著作から引用させていただくと、差別というものには、主に三種類あるという。その三つが、①直接的差別 ②制度的差別 ③文化的差別 である。

 先ほど述べた構造的差別、というのは②制度的差別にあたる。
 また、文化的差別と言われるとピンと来ないかもしれないが、以前「ドルチェ&ガッバーナ(D&G)」が流して批判を浴びた「中国人女性が箸で汚くピザを食べるCM」は、この③文化的差別にあたるだろう。

 そして、「日本には差別なんかない」という人は、往々にして、①の直接的差別に目を向けている場合が多い。「アメリカみたいに、直接的に黒人に危害を加えたりする人がいないんだから、差別なんてない」という風な具合だ。

 しかし、そこではたとえば構造的な差別というようなものは透明化されなかったことにされてしまう。マジョリティの特権の最も大きいものは、「見なくていいものを見なくてすむ」ということだ。

 差別しない人は差異に鈍感な人か、という問いに自分なりの答えを与えるとしたら、「差異に鈍感な人は、自分や周囲は気付かないうちに差別を行ったり、あるいは身の回りに起こっている差別を知らず知らずのうちに容認してしまっている可能性がある」ということだ。

 だからこそ、「差異にとことん敏感になり、その上で潜在的な差別を認識し、ひとつひとつ取り除いていこうとすること」が必要不可欠なのだ。絡まった糸を解くような、地道で繊細でかつ気の重くなる作業かもしれないが、「日本には差別はある」というところから出発しないと、透明化された差別の芽をなくすことはできないだろう。

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