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『裸の聖書』19. イブと『蛇』と想像上のリンゴ -1

こんにちは、もんぱちです❣情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。

「イブが食べた悪名高いリンゴはヘブライ語の聖書には存在しない。」

「ヘブライ語聖書には罪はまったく存在しない。」

聖書にある概念て、わたしたち人類の根底にあるものの氣がするのだけど、リンゴは出てこないは罪の概念は出てこないわ、どういうこと?

前回の記事はこちら↓↓↓

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イブと『蛇』と想像上のリンゴ -1

おとぎ話の世界、イソップ、パイドロス、そしてウォルト・ディズニーのような物語の世界では、動物は話すことができる。
創世記に登場する小動物は蛇である。蛇は話す以上に行動し、歴史上最悪の災難を引き起こし、それまで不滅であったはずの人類の氣ままな幸福を永遠に損なった。
それもこれも、たったひとつのリンゴのせいである。ちなみにそのリンゴはブランドとして、スティーブ・ジョブズによって設立された有名企業の財産を築いている。
この寓話は忘れがたい:その牧歌的な状況―危険とは無縁の完璧な至福―は、一口の果実によって破壊されるのだ。
これは無邪氣な一口ではなく、神の命令によって触れることさえ許されない、禁断の果実だったからである。
不服従は致命的であり、その罰は恐ろしいものだった。致命的な結末を迎えるまで、苦悩、疲労、苦しみの人生への永遠の宣告である。その瞬間から、死は避けられない運命となったのだ。
「宗教に説かれているように、自らの創造物を無条件に愛する有名な『愛の神』の最初のパフォーマンスとしては悪くない。最初の小さな過ちで、神は二人をエデンから追放し、死に至る『有効期限』のある苦しみの存在へと追いやったのだ。」
ビグリーノは冗談を言っているのだ。
「もちろんだ。創世記に登場するのは確かに『神』ではないし、アダムとイブはわたしたちの祖先でもないし、前述の蛇も爬虫類などではないからだ。タルムードには、蛇にはもともと手足が与えられていたとさえ書かれている。ちなみに、これらの聖句には『リンゴ』は一度も出てこない。」
本当なのか?
言われるまでもなく必然的にいつもの返答が聞こえる:聖書を読んでください。あなた自身のために。
「イブが食べた悪名高いリンゴはヘブライ語の聖書には存在しない。」
では、この考えはどこから来たのだろうか?
「その概念は、ヒエロニムスが聖書をラテン語に翻訳した紀元4世紀に生まれたものだ。」
聖ヒエロニムスとして知られるソポロニウス・エウセビウス・ヒエロニムスは、ローマの聖書学者、翻訳者、神学者、キリスト教修道士であった。教会の父であり、教会博士でもあった彼は、旧約聖書の一部をラテン語に翻訳したが、そのテキストはエジプトのエレファンティネ植民地のユダヤ人によってギリシャ語に書き直されたものだった。
ではこの発明されたリンゴは完全にヒエロニムスの想像の産物なのか?
おそらく、単なる壮大な誤解に過ぎなかったと言った方が正しいだろう。
「善悪の木について書いたとき、ヒエロニムスはラテン語の『malum(マラム)』という語を使ったが、これは二重の意味を持ち、つまり『悪』と、ご想像のとおり『リンゴの木』の両方を意味する。」
当時行われていた伝言ゲームを止めるものは何もなかった。
「それ以降、わたしたちはリンゴの話をするようになり、それが決定的な伝統となったのだ。」
では、『失楽園』はリンゴのせいなのか?
「それは違う。古代ヘブライ語では、『果実を取る』とは果実を食べることを意味しない。性行為を成し遂げるという意味だ。」
この場合、蛇と?
「もちろんそうではない。」
では誰と?不幸なイブを誘惑したのは『蛇』ではなかったのか?
「まず、用語について合意する必要がある。この蛇は誰なのか?」
これを理解するためには、いくつかの手順を踏む必要があるとビグリーノは強調する。手始めに、ラテン語訳からほとんど滑稽なまでに導き出された、この物語における『果実』の概念を払拭する必要がある。そうしてから、もう一度、旧約聖書が一貫して記述している文脈に頼るのだ。
逆から考えてみることも、時には非常に有効である。
例えば、蛇とリンゴに関するこの物語のポイントは何だろうか?恐ろしい罪を犯したことから生じる劣等感を植え付けるためだ。
つまり、原罪だ。
「原罪の概念は聖書的なものではない。それは神学によって入念に作り上げられたものだ。そして何よりも、それは個人の中に罪の意識を植え付け、ルールを尊重するよう条件づけられ、当然のように教会のヒエラルキーの一員である仲介者を通じて、『天の父』と言われる存在と和解する可能性を持たせるという目的を果たす。」とビグリーノは説明する。
平たく言えば、ヘブライ語聖書にはその『罪』はまったく存在しない。
「その通りだ。原罪という概念は創世記には出てこない。」
ではあの有名な不従順の行為に関する話は?
「それはまったく別の状況を指している。アダムとイブはある選択をし、その選択の結果、独立して自由に繁殖できるようになったのだ。」
彼らは『果実を食べた』が、それはリンゴではなかった。
「イブが行った行為は、ユダヤ教の伝統によれば、性的な行為であり、いわゆる蛇と結ばれたようである。」
彼女は自ら望んでそうしたのか?
「それはわからない。伝統では、この行為は真に性的に暴力的であると表現されることもある。」
言い換えれば、この『蛇』がイブをレイプしたのかもしれない。
「いずれにせよ、カインが生まれたのは、イブと『蛇』との性的結合からだった。この行為の後、エロヒムは『今、アダムは我々の仲間になった。』と言ったのだ。」
実際『庭園』の守護者たち(『神』ではなくエロヒム)はかなり恐れている:「アダム人がいわゆる『生命の樹』に近づくことを恐れているのだ。」
つまり、ここで話題にしているのはリンゴの木でも他の植物のことでもない。
ビグリーノは、『生命の樹』という表現をまったく別の何か、つまり、『エロヒム自身のような長寿を保証する技術』と解釈する1人なのだ。
おそらく、『生命の樹』とは何らかの遺伝子技術を指し、「それは明らかに寿命を延ばし、エロヒムの寿命と同じくらい長くするために、寿命の長さを制御できるようだ」 と、学者は付け加えている。
それは理にかなっている。
「もしそうなっていたら、もし最初のアダム人がそのような遺伝子操作にアクセスできるようになっていたら、彼らは手に負えなくなっていただろう。」
このような解釈は、エルサレム聖書の注釈書にも存在するとビグリーノは指摘する。エルサレムの聖書研究学校が発表した権威あるドミニコ会の解釈は、「事実上、アダム人の追放は彼らが行ったことに対する罰ではなく、むしろ一種の予防的決定であったと述べている。」
そして、このことはまさに、『 エロヒムは、彼らが管理できないような事態の進展を避けるために、その決断を下さなければならなかった』ということを意味している、とビグリーノは付け加えている。
原罪のことは忘れよう。ガンからの追放は、はるかに説得力のある理由によって動機づけられており、それは今日わたしたちが政治的と定義するような種類のものである(あるいは、人類史におけるすべての偉大な出来事の源である支配的なグループの、正確だが決して明確でない陰謀を知覚する傾向がある人々の用語を借りれば、動物工学的でさえある)。




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イブと『蛇』と想像上のリンゴ -2 へ続く
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