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頑張った量と捗った量は違う

皆さんは誰かを褒めるとき、或いは評価するとき、
その対象となる人物の何を見ますか?

そして「頑張ったね」と言うとき、あなたは何を見て考えてその言葉を発していますか?

今回僕がお話ししたいのは、
頑張った量=捗った量ではないということです。

努力に置き換えてもいいかもしれません。
「努力の跡が見える」
あなたは何を基にそれを判断していますか?

おそらく「目に見える成果」「内面の成長」などと答える人が多いでしょう。

え?だめなの?
何が間違っているの?
と思う方もいるでしょう。

頑張った量=捗った、進んだ量
努力した量=成果

これらの考え方が相手に与える影響、弊害について今日は話していきます。

難しい話ではありません。

例えば、50mを7秒フラットで走る。

楽勝な人もいれば、ギリギリ滑り込める人、到底不可能な人もいるでしょう。
これは当然ですね。

そして、小学校1年生の子供がこれを達成すれば「すごいね!」となりますし、
高校の陸上部の短距離の男子がこの数字だと「何をやっているんだ」と怒られるかもしれません。
70歳のおじいちゃんが走り切ったらそれは「すごい」ですよね。

このように、同じことをするのにも、年齢や性別、様々な境遇によって評価軸は異なります。

これは当然のことなので納得してもらえるでしょう。

これは前提条件です。
次にもう一歩「頑張った ≠ 捗った」に近づいてみましょう。

もう一つ例を出します。

Aさんは家事をこなすのが苦にならないタイプで、掃除はむしろ好き。
効率よく掃除を済ませ、ひと段落した後に達成感と共にコーヒーを飲むのが1日の楽しみ。

Bさんは家事が大の苦手。重い腰をあげ、動き出すのも億劫。
段取りを組むのも苦手で、休日1日がかりでようやく全ての作業を終わらせ、
泥のように眠りにつきます。

この2人は全く同じ内容の同じ量の家事をこなしているとしましょう。

頑張っているのはどちらでしょう。

うーん。
何とも言えないですよね。

ここで僕が言いたかったのは、
同じ内容のことを同じ量こなすのも、
人によって消費するエネルギーやそれによってかかるストレスは異なる、ということです。

もう1つ例を挙げます。

制限時間内に効率よく問題を解き、有名私大に受かったCさんと、
問題を解くのは恐ろしく遅く、推敲に推敲を重ねますが、東大の理系の問題を全問正解することのできるDさん。

どちらがすごいのでしょうか。

もちろん入試に関しては「時間内に収めるのも実力の内」という側面もありますし、
結果としてはCさんが大学に受かって、Dさんは落ちることになるでしょう。

しかし、どちらが頑張ったか、と言われるとどうでしょうか。

そろそろ「頑張った=捗った、成果を上げた」の考え方に無理があることに気づいてきてもらえたでしょうか。

そうです。
同じことを、もしできたとしても、遂行可能だったとしても、
それに伴う疲労度や、消費するカロリーだったりは、人によって異なるのです。

そして、「頑張った=捗った、成果を上げた」の考えが生み出す弊害についても話していきましょう。

子どもの例がわかりやすいですね。

テストで100点取った。
「よく頑張ったね」
褒めてあげる。
言い方にもよりますが、成果のみを褒めると、子どもは無意識に「自分ではなくその成果のみに価値があるんだ」
と思い込みます。学習します。

そうするとどうなるか。
結果を出して褒められる、誰かの役に立って褒められる、行動軸がそれに依拠してしまうと、
その対象がなくなったとき、どこかの学年や単元で躓いてテストで高得点が取れなくなったとき、
その子は「もう褒めてもらえない」「自分に価値はないんだ」と思うでしょう。

部活や習い事だってそうです。
点を取った、リフティング何回できるようになった、賞を取った、コンクールで1位になった。

成果を褒めると、だんだんと自分で自分の価値が測れない人間になっていきます。
失敗すると立ち直れない人間になっていきます。
失敗を恐れる、失敗は悪だと思う人間になり、
失敗を隠したり、挑戦をしない子どもになっていくでしょう。

成果以外で誰かに認められたことがないと、きっとそうなります。
自分の上げた成果を威張り散らしたり、横柄な態度を取ったり、
感情の浮き沈みの激しい子どもになってしまうかもしれません。

ではどうすればいいのか。
簡単です。
先ほどの「疲れた量やかかったストレス」に焦点を当てればいいのです。

成果を褒める、つまり「テストで100点取れた」「ホームランを打った」そのこと自体を褒めるのではなく、
それに至るまでの労力、疲労、ストレス、億劫さがあったことに言及し、認めてあげるような言い方をするのです。

その成果を生み出すまでのプロセスの中で感じた「しんどさ」と言えばいいでしょうか。

しんどさを乗り切ったこと、しんどさが待ち受けていることも承知で一歩を踏み出せたことを褒めてあげるのです。

億劫だなあ、という気持ちに打ち克ったことを褒めてあげるのです。

なので、褒めて伸ばすか叱って伸ばすか、みたいな論争は僕に言わせてみればナンセンスです。

叱って伸ばすなんて論外ですが、褒めりゃいいってもんじゃない。
簡単に言うとこれが僕の考えです。

上にあげたような褒め方、言い方で子どもに接するとどうなるか。
無条件の愛を感じることができます。
いきなり宗教色が濃すぎるでしょうか。
つまりは、親の愛「ちゃんと僕を見てくれているんだ」と感じることができるようになるのです。

幼い頃から優等生で学校でトップ。しかし東大に落ちてしまった。
でも僕の人生はそれだけじゃない。
これで終わったわけじゃない。

成果に囚われない接し方を大人からされて育った子どもなら、きっとそう思えるでしょう。

ただ生きていればいいんだ。
生きているだけで私には価値があるんだ。意味があるんだ。
そう思いながら生きることができるはずです。

逆に言うと、自分がそう言った親や大人に育てられてこなかった人は、
自分が親になり、子どもに「生きていてくれればそれでいい」「成果だけじゃない」と口にし、心からそう思うことは難しいでしょう。

そうして負の連鎖は繰り返されていくのでしょう。

「成果主義」に相まってSNSの流布による「繋がりすぎて逆に関係が希薄な社会」の影響もあり、

自己承認欲求、自己肯定感、といった言葉も頻繁に耳にするようになりました。

どこかで断ち切らないといけません。

それは、ちょうど今。僕たちではないでしょうか。

僕は今27歳。
同世代の友人の結婚や出産の話をよく聞くようになりました。

もう一度言います。
いま、僕たちがまさに試されている時ではないでしょうか。

もっと上の世代の、子育て真っ最中の30代、40代の皆さんもですよ。

僕らにかかってるんです。

この国の未来なんて大層なもんじゃありません。

可愛く無邪気なその愛する子どもの未来です。


小野トロ

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