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小説『That was very fresh to me.』

風の音が聞こえる。
ひゅうひゅう、ひゅうひゅうと。

私の胸を、足を、肩を、頬を、風はするりするりと掠めてゆく。渓谷を勢いよく駆け下ってくる混じりけのないピュアな空気。美味しい空気という手垢の付いたフレーズを使うのが相応しくないぐらいに、とても美味しい。

来た道を振り返ると驚くほど急な下り坂が伸びていた。登っているときは実感しないものだが、想像以上に厳しい山道を登っていたことを知る。普段仕事をしているときは完全なデスクワークでちっとも体を使わない。山に行かないうちに随分細身になってしまった足を少し心配する。前はもっと筋肉質だったのになぁ、と、自分のふくらはぎを摩ってみる。久しぶりにクローゼットから引っ張り出したリュックサックには、愛用のアウトドアグッズと、日本酒の小瓶が忍ばせてある。目的地に着いたら飲むのだ。


布引の滝。

新幹線の新神戸駅を降り、街の方とは反対に出る。渓谷の合間の山道を登って20分も歩けば拝める、滝だ。ごつごつとした岩場にすっと一本伸びる白い筋。それはまるで森の中に降り注ぐ雫のカーテンのようで、遠い異国からやって来た船乗りたちを、あるいは、険しい山道を超えた私を、優しく包んでくれる。

風を通さないアノラックパーカーを着て来たが、山の中なだけあってさすがにちょっと肌寒い。自分の身体を両腕でぐっと抱く。両腕の体温をじんわりと感じて、華奢な胸が少し温まった。両足で凸凹した道を踏み固め、滝と向かい合う。全身の神経を集中させ、滝の姿を見つめる。これは来た価値があるな、と小さくうなづいた。

最近職場の商社に、山登りが好きだという男性が入社してきた。驚くような美形というわけではないのだが、人懐っこくて母性をくすぐられる存在で、すぐに職場に馴染んでしまった。ちょっと気を惹いてみたくて、おすすめの場所とかありますか?と聞いたら、布引の滝がいいですよ。と、ここを教えてくれた。基本他人の好きな場所とか趣味とかそういうのにはあまり関心が無い私だが、ここには自分でも笑ってしまうほど素直に足を運んだ。

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