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虚構の世界で生きる私たち

私たちは教育される事で、何も考えなくなった。何もかも与えられるその知識を盲目的に信じ、自分で自発的に何かを考える事をしなくなった。

今の私たちを駄目にしてしまったのは教育。与えられる知識。

私たちは教育され、同じ知識を教えられ、それに何の疑いも持たずに、知識を得る事は素晴らしい事であり、生きていく上で知識は必要だ!という事を信じ込まされ、皆同じ知識を持つ様に教育されてきた。

この教育によって、私たちは自発的に考えるという事を奪われた。

私たちとは、生まれてこのかた全て与えられるもので満足する事を覚えさせられてきた。自分から意欲的に何かを得よう!ではなく、私たちは一部の人間に与えられるもので満足する事を教えられてきた。

私たち人間はただ与えられるものだけに満足する様に教育されてきた。その為に、自分で何かをしようといった意欲を私たちはあまり強く持たない。

私たち人間というのは、与えられるもので満足を覚える様に作られてきた。何もかも社会から与えられるもの。それを最善なものとして、私たちは受け入れてきた。

この社会が、そしてこの国が自分達に与えてくれるものは、その全てが美しく正しいものだという幻想を私たちは抱き、そこに何の疑問も持つ事なく、ただ与えられるものをそのままに私たちは受け入れてきた。

教育を受ける事を義務化し、私たちはそこで自分で考えるというその本当の意味での自主性を奪われた。自主性を育てる教育というものがちまたでははやっているが、そもそも、私たちは教育というものによって、自分で考えるというその行為自身を奪われている。

教育というものの中での自主性を育てるということと、人間としての自主性を育てるという事には大きな違いがある。人間としての自主性、それを育てるというのなら、私たちはこの社会が作った教育というシステムの中からでなければいけない。この教育というシステムの中にいる限り、私たちに本当の意味での自主性は育たない。

教育に限らず、私たちは何もかも与えられる事で、それに満足を覚える様に作られている。だから、自分で何かを作り出そうとはしない。自分から自発的に何かを生み出そうとしない。この世界とは自分から何かを作り出す事をまるで禁じているみたいだ。

何も新しいものを生み出すな。考えるな!と言わんばかりに街には多くのものが必要以上に溢れている。これらすべては皆私からすれば単なるまやかしにしか見えない。

沢山のものを作り、そして私たちはその沢山作り出されたものに依存し、日々そうしたものを追い求めている。知っているだろうか?私たちは幻想を追い求める様に作られているという事を。

何を買っても、何をしてもこの心が満たされない。いつもどこかに空虚感がある。やっと欲しいものを買ったのに、やっと行きたいと思っていたところにいけたのに・・・・。でも、この心は何故か満たされない。そうした思いを私たちが抱くのは、私たちが虚構の世界で生きているからだ。

何もかも作りものであって、この世界はフィクション。その事を私たちは何も知らない。自分たちの生きるこの世界が真実の世界ではないという事を私たちは知らない。何もかも作られた世界。虚構の世界。でも、私たちはその事に気づかない。本当は気付かなきゃいけないんだけれど、それに気づく事が出来ない様に、この世界は緻密に作られている。

新しい靴を買って、新しい服を買って私たちは満足する。おいしいものを食べて、訪れた事のない土地に出かけて行って、それで自分のこの心を満たしたと思っている。でも、その全てが虚構。私たちは満足している様にただ思わされているだけ。実際の私たちは新しい靴を買おうと、服を買おうと、おいしいものを食べようと満足などしてはいない。私たちは満足した気になっているだけ。そう言った気にさせられているだけ。その事に気づかなければ、私たちはこの緻密に計算されたこの虚構の世界から出る事は出来ない。

私たち人間というのは、させられているだけであり、しているのではない。私たちはその気にさせられているだけで、本当の意味でその気になっている訳じゃない。

この世界は私たちが思っているような世界じゃない。私たちは目を狂わされ、そしてこのファンタジックな世界に生かされている単なる操り人形でしかない。

この世界で生きているなんて幻想。私たちは生きていると思わされているだけ。本当の意味で生きてなどいない。もし、私たちが本当の意味で生きているというのなら、この口から不平不満がこぼれる事はないだろう。

私たちは生きていると思っているだけで、生きてなどいない。だから、苦しくなる。生きるのがつらくなる。それは自分が虚構の世界で何も掴むことが出来ないからなのではないだろうか?


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