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苦しみへの憧憬

私たちは知らず知らずの内に自分を苦しめて、そこから快感を得ている。

自分を苦しめる事で、自分の中から一種の快楽を得ている。

自分の事を苦しめたくない。追い込みたくないとそう言いながら、日常ではそんな自分を苦しめ、追い込んでいる。そうやって、自分の中に快楽を作り出している。

自分を苦しめる事。自分を極限まで追い込む事、そうする事で、自分の中に一種の快楽が生まれる。どこまでも、自分をいじめ尽くす事で、私たちはそこに一種の心地よさを覚える。

人間というのは不思議なもので、不快な事も、ある一定の水準を超えると、その自分にとって不快だと思われていたことが逆転し、それが快感になる。それを快楽として自分の脳が感じ始めるという事になる。

私たちは自分にとって不快な事や、恐ろしい事、そういったことは自分の意識上ではなるべく避けたいとそう思いながら、でも、無意識的には、そういったものに大きく惹かれている。

不快な事は嫌とそう言いながら、何処かではその自分にとって不快な事を追い求めようとする心理がある。

自分の事を苦しめたくないとそう意識上では思いながら、でも、その意識下ではその自分を苦しめたいという潜在的な思いを抱えている。

皆何処かで、自分の事を苦しめて、そこから得られる快感を本当は求めているのではないだろうか?

無理をするな!とそう言われても、とことんまで無理をしてしまう。どんなに疲れていても、その体に鞭打って、どこまでも自分を追い込んで、その自分に負荷をかけていく。でも、そうした中で、私たちは一種の快感を覚える。

自分をいじめて、いじめまくれば、何か自分というものに妙な達成感みたいなものを感じる。自分をとことんまで追い込んで何かをすれば、その自分の中に何とも言えない爽快感が生まれる。

自分を痛めつければ、それで、自分の何処かに爽快感を感じる。やってやってやりまくって、その自分を壊せば、その自分を苦しめれば苦しめるほどに私たちは、何かそこにえも言われぬ心地よさを感じる。

自分というものをとことんまであるものにぶつけていって、そこで、私たちは今あるこの自分というものを破壊しようとしているのではないかとおもってしまう。

こうした事から、考えていくと、人間の中には、今ある自分を破壊したいという強い思いがあるのではないか?とさえ思えてくる。

何かに取りつかれた様に必死になって生きている時、そこでは常に、今あるその自分の破壊が行われているのではないかと感じる。常に、今ある自分を破壊し、そしてそこに新たな自分というものを再構築しようとする。

自分の中にある極限にまで何故、私たち人間は挑もうとするのか?それが自分にとって不快な事であるという事がわかっているのに、何故、そこに飛び込んで行こうとするのか?それは、そうした行為の中で今ある自分が殺されていき、その先に一瞬本当の自分というものがかいま見えるからなのではないだろうか?

苦しいのは嫌と言いながら、その苦しみの中に自ら入って行く。私たち人間というのは、みんな表層ではこの苦しみを嫌って避けているかのように思えるが、でも、実際はこの苦しみを本当は愛し求めているのではないだろうか?

私たちは知っている。苦しみが、私たちを一番興奮させるという事を。



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