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綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。

誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。

こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。

学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。

何でもかんでも言う事を聞いて、その通りに出来る子。これが社会では出来のいい子という事になる。先生の言う通りに出来ない子は、皆、何かがおかしいというレッテルを貼られて、特別学級へ。

どうして皆、同じに出来なければいけないんだろう?何故、皆が同じでなければいけないのだろう?やっぱりこの社会の何かがおかしい。

皆それぞれ違うのに、どうしてその全く異なるものを同じ枠にはめようとするのか?何故、その枠に収まり切れない子に私たちは冷たい視線を投げかけるのか?

自分の事を全うだ!なんて思っている人の方が、私はよっぽど狂ってると思う。何でも右に倣えで、同じにしなきゃいけないといって、強要してくる人間の方が私は狂ってると思う。

この社会は、私たちに無理な事ばかり強いてくる。出来ない事ばかりを強いてくる。だから、私たちはそれに疲れてしまう。

何でもかんでも、こうしろ!ああしろ!とそういい、しなければいけない事で私たちをがんじがらめにして、この社会は結局は、私たちのしたい事をさせない様にしているだけ。

この社会は、表では私たちに自由を与えている様で、でもこれをじっくりと考えてみれば、私たちには何の自由も与えていない。

ああしろ!こうしろ!と言って社会は私たちを縛り、拘束し、そしてありとあらゆるものを背負わせて、、私たちから自由を奪う。

この社会は、これまでも、これからもずっと私たちが自由に生きる事を制限し続ける。自由に出来ない様に、私たちに色々なものを背負わせる。負荷をかけ続ける。そんな世界の中で一体どうやって、私たちは自由を獲得したらいいのか?

自由に生きたくたって、私たちはもう幼少期の頃から、その自由さを完全に奪われる。教育というものによって。教育とは私たちから、人間的な自由を奪う。人間である事を奪う。教育とは、私たちを家畜化する為の、ロボット化する為の一番最初のプログラム。

このプログラムに上手く順応出来ればよいが、このプログラムの中で上手く順応できなければ、そこから私たちは、はじかれそして社会的に排除される。

今や何でもかんでも発達障害。皆と同じように出来なければ、何でもかんでも発達障害。この言葉ほど都合のいい言葉はない。

この発達障害という言葉も、結局は相対的なもの。ちゃんと出来ない、社会が作ったプログラムに順応出来る子と比べて出来ない子を作り、ただそういう子を、私たちは発達障害と呼び、そう言った名で分類しているに過ぎない。

よく考えてみて欲しいのは、発達障害というのは、単なる偏見でしかないのではないか?という事。ただ、この社会に上手く順応できる人の一方的な見方に過ぎないと私なんかは思う。

この社会は何もかもちゃんと出来る人の方が今の立場が高い。だから、その人達の言う事が今は当然の様に思われているけれど、もしこの形が逆転したら、この社会にしっかりとフィットして上手く順応して生きている人の方が発達障害という事にもなりかねない。

この社会に自分は上手く順応し、そして生きる事が出来ているという人の方が、少し見方を変えてみてみれば、異常だったりする事もある。

私は、人間的に、あまりこの社会に上手く順応出来てない人の方が好きだ。

この社会と逆行して生きている人の方が好きだ。そういう人の方が人間らしい。何でもかんでもいい子ちゃんで社会の言いなりになっている様な人はどこか、人間らしくない。私から見ると、そう言う人こそ、非人間的に見えてしまう。

人間というのは、綺麗で形の整ったものじゃない。凸凹していて、しっかりとした形を持たずに、とても綺麗とは言えないもの。めちゃくちゃなもの。でも、そのめちゃくちゃな中にこそ、その混沌としたものの中にこそ私は人間らしい美があるのではないかと思ったりする。

綺麗に整た物など、何も美しくはない。時に、どうにもならない爆発的で破壊的な感情を持つ者。そう簡単に何でもかんでも上手く処理など出来ない、何処までも自己中で往生際の悪い、そう言った人間の中にこそ、上手く調教出来ないその自分の中にこそ、人間としての本来の美しさがあるのではないかと思ったりする。

人間というこのどうにもならないものが、自分の力で自分をどうにかしようともがく、そこに美がある、そんな気がする。美とは結果ではなく、人間が人間であろうともがくその瞬間に見せる一種のきらめきの様なものなのかも知れない。





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