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誰かにとっての良いものが、果たして本当にあなたにっても良いものになりえるのだろうか?

私たちは、意外にこの世界の事を何も知らない。何も知らずに、この社会が私たちに与えるものを盲目的に享受している。

この社会が私たちに与えてくれるものは、皆いいものだと思って、与えられるその全てを何の疑いもなく、私たちは受け入れる。

何かを考えている様で、私たち人間というのは、意外に何も考えてなんていないんだと最近よく思う。

何に対しても盲目的で、何かを意識的に捉え考えてみようという事がない。私たちは、いつからか、考える事から逃げる様になった。考える、思考の力を使うという事を私たちはしなくなった。

考えるな!感じろ!こういう言葉があるけれど、まさにこんな感じ。とりあえず色々考えずに、感じる。これが今の私たちかもしれない。

頭を使って考えるのではなくて、感じる。そこにあるものを感じる。ただそれだけ。今この世界に生きる私たちは、思考に頼るのではなく、その全てを自らの感覚に任せている気がする。

心地いいとか、気持ちがいいとかただそれだけ。それ以上の事は何も考えない。感覚だけで全てを決定していく。

気持ちが良ければ、心地が良ければそれで良くない?それ以上の事を考える必要がある?というような感じ。

今この世界を生きる私たちにとっては、感覚こそが全てで、この感覚ってものを私たちはあまりにも神聖視しすぎな気もする。

気持ちが良ければ、それで自分がいいと感じるなら、何でもあり。これが今のこの社会を作っている。確かに自分が心地が良い事、気持ちがいい事は大切ではあるけれど、今は、あまりにも、こうした考えが横行しすぎている気がする。

誰を、そして何をおいても自分。自分さえよければそれでいい。こういった考えに、私たちは今、移行し始めている気がする。感覚至上主義だ。

自分の感覚こそが全てであり、それ以外は何の意味も、そして価値もないというような考え。何をおいても一番に尊重されるべきなのは、この自分の感覚であり、その感覚を受け入れてくれないのなら、もういいという人間が昨今あまりにも増えてきた気がする。

私が良ければ、それでいい。私が心地良ければそれでいい。確かに毎日強く自分の事をそう思い続けるべき人もいる。でも、これは、自分に自信が持てない人にとっての言葉や考え方であって、元々、自分にある程度自信がある人が、この考えを受け入れてしまうと、大変な事が起きる。

彼らは、そもそもプライドも高いし、自分にそれなりの自信も持っている。こういった人間がこの自分さえよければそれでいい。自分の感覚こそが全てといった考えに傾倒すると、こういったタイプはただのモンスターにしかならない。

考える事よりも、感じる事の方が大切だ!という言葉があるけれど、これは皆に当てはまる言葉ではないという事を知ってもらいたい。人には、色々なパターンがあり、最もわかりやすい話で言えば、人間には内向的と外交的というものがある。この内向的なタイプの人間にとっては、自分の感覚を信じ、そして自分が心地よいというものを優先して生きていくという事は大切かもしれない。でも、これをパターンの違う外交的な人間が受け取った時、そこで起きる化学反応は全くちがったものになる。

外交的な人間には、この自分の感覚を信じて、自分の心地よさを追求する事は意外に毒だったりする。彼らがこれらを自身に受け入れると、ただの自己中心的な人間にしかならない。彼らに起こるのは、ただの自我肥大でしかない。

これは何にでも言える事だけれど、皆が皆、同じものを受け取った時、同じ反応を起こし、同じ結果を得られるか?と言われればそれは違う。内向的と外交的、この二つを取ってみただけでも、全くその反応の仕方と、その後の変容した形は違ったものになる。

同じものを吸収したからと言って、そこにそのものと全く同じ変容が起こるか?と言われればそれは全く違ったりする。アジサイという花があるが、まさにあの花と原理は同じ。アジサイも、全く同じ土というものに根を下ろして生きている訳だけれど、その土壌が酸性かアルカリ性か、中性かで全く花の色が変わってくる。

皆それぞれ、違う。人間にはいくつかのパターンがあり、そのパターンによって、同じものを投与したとしても、そこに起こる科学変化は全く異なるものになる。

私たちは、同じものを投与すれば、皆同じ結果がそこから得られるとそう思っているが、実際にはこれは全く違う。色水をいくつか作って、そこに同じ色を足したとする。そうすると、皆違った色が同じ色になる訳ではない。ベースの色がそれぞれ違えば、いくらそこに同じ色を足したとしても、そこに現れる結果は皆別のものになる。

私たちは、そろそろ、皆同じではなく、皆それぞれ人間というものは違うという事に気が付かなくてはいけないのかも知れない。

これまで私たちは人間という名でひとくくりにされてきた。何もかも人間という意味で同じだという観点で、色々なものを与えられ、それをこれまで享受してきた。でも、この最もシンプルな考えをベースに考えれば、この人間という名でひとくくりにされ、私たちがこれまで享受してきたその全てが皆、素晴らしいものだったのか?自分にとってより高い効果を生むものだったのか?と言われれば、それはもしかしたら違うのかも知れない。

あの人にとって良いものも、自分にとっては全く良くないもので、つまりは、あの人にとっての良薬が、意外に自分にとっては毒だったりする事もあったりするわけで。こういった事を私たちは何も知らないから、皆にいいものは、自分にもいいものだという幻想に落ちていく。そしてその幻想の中で意外にこの身も心も蝕まれていたりする。

こう言った事を少しでもどこかの誰かに気づいてもらえたらいいな。なんて思ったりする。

皆にとっての良薬が、本当に、皆にとって良薬となりえるのか?色々なタイプの人間がいて、その色々なタイプの人間全てに有効な良薬など本当にあるのか?そこを少しでも考えてもらえたらと思う。


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