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つぶやき集

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引き寄せの法則や現実創造の方法なんて、私の人生にはいらない。
願いが叶えられる私であるかどうか、願いが叶ったかどうかをずっと見張りながら生きていくなんて、しんどすぎる。

叶ったら喜んで叶わなかったらがっかりして。
それでもなお叶えたいなら、また一歩を踏み出す私であり続けたいから

「引き寄せ」なんて存在しないから、
安心して絶望すれば良い。

あなたの在り方も、あなたのブロックも、あなたの潜在意識も、
あなたの望みが叶うかどうかとは
一ミリも関係ないから。

安心して望んで
今この瞬間できる一歩を、踏み出していれば良い。

世界は偶然で出来ている。

自己犠牲、という言葉について思う。これは他人が誰かに対し使う言葉であって、自らへ向ける言葉ではないよねと。
釈迦に我が身を差し出した兎は、自分を犠牲にしたいと願ったのか?違うよね。そこには与える喜びだけが存在したはずだよね。
奪われてると思う自分を疑ってみよう。

自粛期間中に感じたグルメ番組とか旅番組の多さ。「これが終わったら目一杯外食して旅行に行かなきゃ」って無意識に刷り込まれて、我慢してると思わされてる。
「好きを仕事に」も同じで会社勤めが苦しいと思い込まされてるだけかもよ。
それって本当に自分の気持ち?今、本当に何一つ叶って無い?

「やりたくない事をやめる」って言葉に流されないでね。
例えやりたくない仕事であっても、続けている以上何かを選んでいる。自分の居場所のためとか家族のためとかあるいは日々の糧とか。
自分が今そこへ注いでいる理由、自分が大切にしてるものを見極めて、今度は自覚して選び直す事だよね。

「私はどうしたい?」と「私はどうなりたい?」二つの質問の違いは大きい。

「愛されたい」「幸せになりたい」は誰かに叶えてもらう前提だから叶わない。
「私はどうしたい? →→愛したい。大切にしたい。これをやりたい」
出した答えを自分で生きる事で、人生が自分の手元に戻ってくるのだ。

お母さんは家庭の太陽って言葉に違和感があったんだけどさ。

太陽ってかんかん照りの日もあれば、雲隠れして出てこない日もあるし、冬なんて空にあるのに温まらない日もある。

それでも有り難がられて、何日か拝めないと鬱々するくらい心の支えになってる。
うん、たしかにお母さんは太陽だわ。

私は冷たい人なので
大丈夫だよと優しく言えない。
助けてあげるよとも言えない。

その悲しみも苦しみも
あなただけのものだから。

あなたはあなたの答えを生きて、
あなたの幸せを見つけるだろう。

だから、生きろ。ひたすらに。

疲れた時に軒先を貸すくらいならできるこら。



「怖いはGO!」って引き寄せ界隈ではよく言われるけれど、「怖い」の中身を見ないまま飛んだら、それは無謀。怖い気持ちの奥を見れば、本当に叶えたい願いが潜んでいる。
(認められない失望されるそんな私は価値が無い)と震えながら怖がりながら望んでる、ダサイ自分と共に踏み出せ。

「自分より劣っている(ように見える)人が頑張ってんだからあなたも頑張りなさい」このメッセージが気持ち悪くてパラ観戦も某長時間番組も好きになれない。
自分の「やりたい」に全力で取り組む喜びを知っているから、他人の頑張りを応援できるのだ。心にもない応援を他人に強いるのは悪趣味だよ。

自分を傷つける相手を、変える事はできない。
だから向き合うのは自分の反応。守りたいものが無ければ怒りは湧かない。大切なものが無ければ傷つかない。その大切なものは本当に相手の言動で傷ついたのだろうか?損なわれたのだろうか?
そう問うと、傷つけられたという出来事の大半は幻だと分かる。

(続き)
逆に感情を「否定する」とは、「こんな事考えちゃだめだ」「そうは言っても相手にも事情があるんだし」みたいに感情を思考で処理しようとする事。これが過ぎると、感情を感じること自体を禁止するようになり、
「自分が何を感じているのか分からない」という昔の私のようになってしまう。

生きづらさから抜けるために、怒りや悲しみなど今まで否定してきた「マイナスの感情」を認める事が必要になってくる。
けれど「認める」とは怒りや悲しみを表現して出す事ではない。
ああ悲しいんだ、ああ怒ってるんだ、と言葉にするだけで癒しは起こる。
認めるとは認識すること。自分を知ること。

「自分を満たす」って「誰かの機嫌を気にせず自分の感情を放つ」とか「周りの状況よりも自分の好きやを優先する」と解釈しがち。
でもさ、本当の所私たちは、周りの人と調和していたいし役立っていたいんじゃないのかな。満たすのは外側じゃない。内側の、自分が本当に望む事を叶えていく事だと思う。