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6.名ばかりの革命、始まったばかりの物語:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集

この街の冬は暗い。

故郷の宮崎では、真冬の12月といえども穏やかで暖かい時間帯があった。快晴の青空が広がる日の昼間は陽気で心愉しかった。ところがこの福岡の冬は、毎日のように曇り続きだ。これが日本海側の冬なのだと言われればそれまでなのだが、気が塞いでしまう。

六本松の大学校舎に向かう足も、そんな曇り空の下では重い。11月に授業が半年ぶりに再開されたものの、同じく教養部に属する周りの学生たちも浮かれた顔はしていない。沈痛と言うほかない停滞した表情ばかりが並んでいる。もっとも宮崎出身ではない私以外の学生達もそうしたメランコリイに沈んでいるのは、太平洋への郷愁ではない他の出来事に紐づいているわけだが。

1969年の今、かねてよりエントロピイ的に増幅し続けてきた闘争の熱気はところどころでしぼんできている。私たちの大学では米軍機「ファントム」が電算センターに墜落した1968年6月に強大な抗議デモの爆発が見られたが、それから一年が過ぎた今年5月の無期限ストライキをピークとして、溜まりどころを失った熱気は雲散しはじめている。

そもそもデモや闘争は、権力への疑念が噴出する一時的な噴火現象にすぎない。爆発が終わりエネルギーが尽きれば、新たな疑念で既存の疑念が塗り替えられながら衰退していくのが待たれるばかりだ。倦怠と沈鬱にバリケードごと取り囲まれた闘争の同志たちは、次から次へと巻き起こる裏切りと内ゲバで疲弊していく。

これが、私の見る1969年だ。

抑圧が抑圧を生み、学生たちの表情は用水路の淀みのように暗い。日本海から流れてくる雲が生む日陰は、時代の風とともに私たちを冷やす。もちろん私もその日陰の中にいるわけだ。

「コンゲな日は、ナンモカンモ止めじゃなあ?」

路傍のサバトラ猫に話しかけながら、大学へ向かうつま先を方向転換させる。いらん、いらん。どうせ授業なんて誰も聞いとらん。ナンセンスだ。

大学校舎の周りには、目をつぶって歩いていてもドアに突き当たるくらい多くの喫茶店がある。こういう陰鬱な日にはひっそりとコーヒーを呑んで、レコードが回転しきったあとの断絶音を延々と聴いているのがいい。

私は喫茶「ロンリイ」の扉を押す。ここは、アート・ブレイキーを贔屓めに流すのがいい。おかみさんが手際よくジャッジャと炒めるナポリタンにサイフォンの鳴りが交錯し、そこに「モーニン」なんかが加わると最高だ。手持ち無沙汰に本を読むなんて無粋なことはできなくなってしまうのだが、それがいい。

「いらっしゃいませ」

カウンターの手前に立ち声をかけてきたのは、おかみさんを半分くらいに小さくしたオンナの子だった。見たことがない。

客かもしれないと思ったが、前掛けをしているからにはここで働いているんだろう。

「アラ河野くん、来とらしたと。真ん中のテーブル座ってよかよ」

おかみさんのいつもの声が、オンナの子の向こうから飛んでくる。

どんな挨拶をすべきかしどろもどろしていた私には、おかみさんの声がありがたかった。

私はテーブルの上に置かれた砂糖瓶を凝視したまま、席に着く。前掛けをしたオンナの子がお冷やを持ってきたので、今度はグラスを見つめたまま「ナポリタン、コーヒー」と言った。

誰なんだろうこの人は。

「ハーイ!」とハリのある返事をした声は良質な風鈴みたいに軽やかで、そこだけちょっと夏が来たようだった。

「しんせい」に上手く火がつかない。どうもペースが乱されてよくない。レコードも、なにやら聞いたことのない曲が流れている。これはフリースタイルというやつなのだろうか。

チリチリと扉が開いて、学生と思しき男二人が入ってくる。私の知り合いではない。もともと、この街に私の知り合いはほとんどいない。太ももに落ちたしんせいの灰を左手の薬指で払いのける。

私は鞄から、最近買った海外小説を取り出す。幻想小説という類で、周囲に読んでいる学生はなかなかいない。

どうも周りの男たちは、ドストエフスキイやなんかのロシヤ文学に傾倒しすぎている。どうせこれも「革命」の影響だろう。本当にドストエフスキイをドストエフスキイとして理解しながら読むことができる信用に値する男が日本に何人いるのか、知れたもんではない。

私はどちらかというと、決して他人には言えないが、敬虔な読書人としての時間はサガンなどに捧げたい。このことを数少ない見知った人間に打ち明けてみようとしたこともあるが、ついぞ「サガンが好きなんだ」とは言い出せずにいる。

彼女の真の価値は理解されずにいる。時代は頑なだ。

いま私が鞄から取り出したマイルズ・イェールという作家の本にしても、売り出し中ということで買ってはみたもののホイそれと周りに言えたもんじゃない。幻想小説など軟弱だのなんだのとやかましく言われるのが関の山だ。
訳者を見る。「世田谷譲司」とあるが知らない。『変身記』という書名はオウィディウスに似ているから、何かと言われたら『転身譜』と間違えたとでも言い訳が効くかもしれない。

最近はただ話をする相手すら乏しいというのに、使いもせぬ言い訳だけはすらすらと思い浮かぶ。湧きおこる言い訳の数々は、この街の曇り空に吸い込まれていく。

「お前は、体制に心の底まで毒されたとか!」

毒された、という言葉に異様な力がこもった声だった。先ほど入ってきた二人の口論らしい。店に入ってきたときには気がつかなかったが、二人ともどうやら酩酊に近い状態だ。口角泡を飛ばすという言葉そのままに、だらりと開いた口からは実際的な意味を伴わない罵声と唾液が飛び出し続けている。「ナンセンス、ナンセンス、ナンセンス…」

「革命のォォォォ…革命に先駆けたる紅のォ狼煙は、我々のセクトのォ、存在意義ではなかったのかァァ!」

「落ち着けよォ、古賀。まだまだ昼だというのにィ…」

騒がしい虚無だ。何にも生まない、野蛮にすらなりきれていない表層だけの言葉のなじり合いだ。カウンターのほうを見ると、おかみさんが腕組みをして下を向いている。私のナポリタンはどうなっているのだろう。この虚しい口論のせいで放念されてしまったのだとしたら、それは虚無よりも悲しい。

おや、と私は思う。入口近くにいたオンナの子が視界に入ってこない。店の裏にでも回っているのだろうか…。

瞬間、私が座るテーブルの横を猛然と通り過ぎる彼女を見た。

「アンタたちゃ、ソゲンに昼間から酔うとってからドゲンするとね!無駄な馬力があるとやったら、箱崎浜まで歩いてから海の風ば浴びて目ぇ覚ましんしゃい!」

彼女が男二人を制圧する勢いは、私が目にしたことがあるどんな機動隊員よりも凄まじかった。

おかみさんはカウンターからその様子を見ながら、腕組みをしたまま吹き出している。

福岡中が目覚めるほどの怒声だった。驚きのあまり目を釘付けられてしまったその子の顔は、名ばかりの革命に身をやつすどんな男どもよりも本物であった。彼女は本物の闘志を身に着け、怒り、曇りなき眼で相手を見据えていた。まさに本物だった。

「キミィ、キツイ言葉とウラハラに可愛いィ顔しとるやんか」

虚を突かれた学生が平気なふりをして絡むが、闘争する女はその手をはらう。

「ワタシに声かけるとやったら、目ば覚ましてからたい。ピシャッとしてから向こうのお客さんにも謝らんね」

静かな声ながら、目と鼻の先にある鉄塔に雷が落ちたみたいにずしりと響いた。完敗だ。

「アァ…そう…。すまんね、君。そちらの兄さんも、ね」

古賀と呼ばれた男が、心底反省したように詫びていた。

「ソウソウ、コーヒーを二人分…ください…」

バツが悪そうに註文する古賀と呼ばれた男に対して、彼女は子どもの我儘を聞いてやるみたいな態度で応えた。

「コーヒー二丁。『静かに』お召し上がりくださいね」

学生達は二人して目配せをしあう。「コリャまいった」という風情だった。

「アラ、本ば落としとんしゃるよ」

カウンターに戻る途中、怒声とはすっかり違う声色の彼女が私に呼びかけた。

「あっ、ドウモ…」

「ドウゾ…へぇ、綺麗な本」

「イヤそれはその、オウィディウスを読もうと思ったら間違うて買うたとです」

「オウィディウス?マイルズ・イェールって書いてあるわヨ。本の名は…『変身記』っていうんですネ。コレ面白い?」

「いやまあ、ハハハ」

言葉も表情も出てこない。奥の席で学生達がどんな顔をしているのか気になる。おかみさんは、私のナポリタンをどうしてしまったのだろう。サイフォンの音だって、まったく聞こえない。私の注文は、そもそもこの雷みたいなオンナの子に受け入れられていたのだろうか。

「ホントウに綺麗な本ですね。溜息が出よるごたる」

彼女は私に向かって両肩を一度上げ、ラジオ体操みたいにゆっくりと下げながら大きく息を吐いた。その仕草はひどく高貴に映り、とても先ほど喧嘩まがいの騒ぎがあった喫茶店の中とは思えないような情景だった。

泉の周りにたたずむニンフの一人。

時に怒り、時に溜息をつく彼女。

「ネ、あなたの好きなページはありますか」

思いもよらぬ問いかけだった。そして私に思い至る答えはまだ無い。何と言っても、まだ開いたこともない本なのだ。始まるのは、これからだ。

「アァ…ソレは…これから、探します」

彼女は「ソウ」とだけ言い残し、本を私に返してすたすたと去っていく。全てを見透かしたような、それでいて喜びに満ちたような「ソウ」だと私には聞こえた。

私の眼差しを受け止めてくれるのは、再び砂糖瓶だけになった。

彼女と入れ替わりに、おかみさんがやってきてコーヒーとナポリタンを持って来てくれた。私はすぐに目を伏せた。

「ゴメンねぇ、遅ゥなって。奥の子たちが酔うとったけん、喧嘩やら始めるっちゃないかって思うとったとよ。案の定やったやろ。お詫びにちょっと多めにしとったけん、ゆっくり食べり!」

「ありがとうございます」と砂糖瓶に向けて礼を言う私を見て、おかみさんが笑っていた。

こっそりとカウンターのほうへ目線をずらすと、彼女がサイフォンでコーヒーを淹れる準備をしていた。凛々しく、繊細な表情をしている。まさにニンフだ。

「怖いやろ、文ちゃん」とおかみさんが言う。

「フミちゃん、ですか」

「文子やけん、フミちゃん。怖いやろ」

「ハァ。マァ」

「ナンねソリャ。そんで、可愛いかろ?」

「エェ。マァ」

サイフォンの心地よい音が店内に鳴りわたる。

沈黙。

おかみさんだけでなく、後ろの学生どもにまでも、そして彼女にまでも、私の「ハァ」「エェ」「マァ」が聞こえているのだと気づいた時には、沈黙がゴトゴトと動き始めた。

「アラッ!イヤ、ソノ…。ソリャ、一般的観点からしてということですネ!」

「ハイハイ!『好きなページ』ば探しとキィヨ!」
おかみさんは小声で私にそう耳打った後、奥の学生達にコーヒーがすぐできる旨を伝えながらカウンターの中へ帰っていった。

砂糖瓶に手を伸ばす。手を伸ばしたところで、普段は砂糖を使わないことに思い至る。コーヒーは後にしてナポリタンにとりかかろうとするが、手が震えてフォークを包むナプキンをはがせない。カウンターのほうから、小気味よい笑い声が聞こえた。彼女の声は、怒っていても笑っていても本物だ。

ハァ、と一息吐き出して窓の外をみやる。店内のレコードは、アルトサックスの何かを歌っていた。これはチャーリー・パーカーだったろうか、ひどく心地がいい。

喫茶「ロンリイ」の窓枠に区切られた六本松の空は、福岡の12月とは信じられないほどに青くなめらかだった。なんだ、福岡の空だって悪くないじゃないか。いつだって見る目を違えなければ、本物は本物なんだ。

私は一心不乱にナポリタンを食べる。これは間違いなく本物だ。ケチャップが飛ばないように『変身記』を鞄にしまいながら、家でじっくりと「好きなページ」を探そうと誓う。ナポリタンを炒める音もサイフォンの音もない環境で、私はページに刻まれた物語と向き合うのだ。

「好きなページはありますか。」

彼女が私にこう尋ねた刹那から、彼女と私が「好き」を分かち合うことができる可能性が生まれた。

その可能性が本物であるように。

決して途絶えることがないように。

始まったばかりの物語を、私はめくり続ける。

6.名ばかりの革命、始まったばかりの物語」おわり。

宮崎本大賞実行委員がお届けするショートストーリー集「好きなページはありますか。」をお読みいただきありがとうございます。

下記マガジンに各話記事をまとめていきますので、フォローしていただけると嬉しいです。

≪企画編集≫
宮崎本大賞実行委員会

≪イラストディレクション≫
河野喬(TEMPAR)

≪イラスト制作≫
星野絵美

≪文章制作≫
小宮山剛(椎葉村図書館「ぶん文Bun」)

ショートストーリー「好きなページはありますか。」は宮崎本大賞実行委員有志の制作です



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