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東京の夜桜と、Tさんのナルシシズム

 東京のドラッグストアでアルバイトをしていた十九歳の頃。バイト仲間にTさんという一つ歳上の男性がいた。彼はいつも周囲の視線を気にして、すました顔をしている。彼の殆どの行動は「かっこいいと思われたい」という動機に基づいているものなのだ。私はそんな彼のナルシストぶりを観察することが、密かな楽しみだった。

 バイト先の隣には美容院が建っている。アシスタントと思われる若手の美容師さんたちが、仕事に必要な日用品をよく買いに来ていた。その中でも、NさんとОさんはお洒落で顔立ちもよく、バイトの男性たちから密かな人気を集めていた。
 Tさんは毎日のように「彼女がほしい」と洩らしていたが、いつしか彼のセンサーはNさんを捉えて離さなくなっていた。

 ある日、Nさんがいつものように日用品を購入しに来店すると、Tさんが急いでレジに入った。彼はNさんに領収書を発行した後、連絡先を交換してほしいと申し出た。口ばかりだと思っていたから、この積極的な行動には少し驚いた。もしかしたら彼は、自分ならNさんと付き合えるのだと信じているのかもしれない。
 それから二人はメールのやり取りをして、男女二対二でお酒を飲みに行こうという話になった。NさんはОさんを、Tさんは私を誘い、この四人で夜桜を見物しに行くことになった。

 私たちは仕事終わりに店の前で待ち合わせて、花見の名所である大きな公園まで歩く。
 公園までの道のり、皆が緊張していたようで初めは私もTさんとばかり話していた。が、Nさんの声かけにより、それぞれ自己紹介することになった。
 NさんとОさんは二十二歳。彼女たちは専門学校からの友人で、現在は美容院の隣駅に住んでいるという。仕事の影響であろう、手が随分と荒れていて、Nさんの手にはいくつも絆創膏が貼ってあった。
 Tさんが自己紹介すると、Оさんが言った。

「Tくんって、俳優の成宮寛貴に似てるよね? 言われたことない?」

「ん? 成宮って誰?」

 Tさんは唇を尖らせて、空を仰ぐ。そのわざとらしい態度に啞然とした。この男、そう来たか。彼はつい先日、私にこう言っていたのだ。

「俺って、成宮に似てない?」

「えっ……いや、ちょっとよくわからないですけど。でも、なんか言われてみれば、髪型が似てる気がします」

 そのとき既に、バイト仲間が彼から同じ質問を受けたことを知っていた。彼は美容院で成宮の写真を見せてカットを依頼したらしい。面倒なので、適当に褒めておいた。
 自分から話題を振ってくるのはまだかわいい方だ。相手から掛けてほしい言葉を言ってもらえたのに、知らないふりをするとは。呆れて物が言えない。
 Nさんが携帯電話で画像検索し、成宮寛貴の写真を皆に見せる。

「確かに似てるかもー」

「まじ? 見せて。……ああ、なんだこいつ。こんなのに似てるなんて、俺やだな」

 私は黙っていた。彼の名演技はどこまで発展するのだろう。少し笑ってしまいそうだったが、右手の甲を口に当てて堪えた。

 公園に着くと、正門からずらりと桜が並んでいた。NさんとОさんは「わあ」などと言いながらパシャパシャと写真を撮る。満開の時期は過ぎて散り始めているが、蝶のようにひらひらと舞う花びらが美しい。
 夜の八時頃だったが、夜桜を見物する人で賑わっていた。私たちも適当な桜の木の下でシートを広げる。途中のコンビニで買ってきた缶ビールや缶酎ハイの蓋を開けた。
 Tさんは酒に弱いらしく、絶対に飲まないと言う。ウーロン茶を手に持っていた。

 乾杯の後、Tさんは鞄をごそごそと漁り、切手のような物をたくさん取り出した。覗いてみると、高校時代から最近までの彼のプリクラだった。どれも笑顔はなく、顔を斜めに傾けてポーズを取っている。彼はそのプリクラを配布し始めた。
 NさんとОさんは一瞬、きょとんと静かになった。が、Nさんがプリクラを見ながら、必死にテンションを上げて言った。

「おお、若いー! なんだか青春だねえ」

 どのあたりに青春を感じたのかは謎だが、彼女たちからしても、この行為は謎だっただろう。咄嗟に出たフォローの言葉だった。
 しかし、この褒め言葉ではTさんの承認欲求は満たされないことを私は知っていた。
 彼はすかさず、財布から運転免許証を取り出す。

「ああ、まじ見られたくねえんだけど。まあ、しょうがない。せっかくだから見せてやるわ」

 こいつ……何を言っているんだ。誰も頼んでいないだろう。誰もあんたの運転免許証なんか見たくない。もちろん、言えるはずもないが。
 この、運転免許証の写真を見せてくるという行為、彼がいつも使う手法である。私も見せられたし、この場面を幾度も見てきた。それにしても、よりによってこのタイミングか。プリクラの微妙な反応の直後なんて無謀すぎる。何を考えているのだ。なぜか、私がひやひやしてしまう。

「え? あ、すごーい……ね?」

「うん……若いねっ」

 二人がコメントに困っているのは明らかだった。「すごい」って、何のことだろう。確かに承認欲求がすごいのは間違いないが。それに、「若い」で乗り切ろうとしたのだろうが、もうそのワードはさっき使って失敗しただろう。
 彼女たちの違和感ある感想に、Tさんは何も気づいていない様子だった。これ以上、彼女たちを困らせるわけにはいかない。私がこの場を収めなければ。妙な使命感に駆られていた。

「ちょっといいですか。僕にも見せてください! おお! Tさん、やっぱかっこいいですね。さて、今日は……」

 我ながら機転が利く行動だと思った。話題を変えられるのは私しかいない。Tさんからの誘いを受けた時点で、こんな面倒な役回りを引き受けたも同然であることを、もっと覚悟しておくべきだった。
 段々と過去の恋愛話に花が咲く。すると、話を聴いていたTさんは、あからさまにつまらなそうにして、不機嫌な態度になっていった。彼は話題の中心にいないと落ち着かない質なのだ。それを察した私は、Tさんに話を振る。すると彼は、眉間に皺を寄せた。

「ああ、みんなモテていいね。俺、まじモテないから。俺もモテてみたかったなあ。こんな見た目に生まれたからかなあ。モテる人はいいなあ」

 そう言って煙草を吹かす。ああ、出た出た。お得意の「そんなことないよ」待ち。もはや、彼女たちが気の毒でしかなかった。なぜか私まで申し訳なくて謝りたい気分だ。
 Оさんは僅かに苦笑いを浮かべて、Nさんの方をちらりと一瞥する。

「大丈夫、大丈夫。これからだよー」

 決して「そんなことはない」とは言わないNさん。彼女の媚びることのない、絶妙に調和の取れた返答に、私はほっと胸を撫で下ろした。 

 外灯が桜を照らしている。まるで花びらが発光しているかのような鮮やかさで輝く。深い紺色をした空には、怪しげな薄い雲が漂っていた。
 私はこの地に来て、本当によかった。東京にも、こんな心を奪われる自然が身近にあるなんて思ってもみなかった。
 目の前にはきれいな女性たちがいる。一緒に酒を飲み、どうでもいい話をしている。なんて贅沢な時間だろう。

「俺は昔、ワルだった。殺人、強盗、強姦以外はすべてやった」

 Tさんが彼女たちにそう自慢げに話している。彼のおかげで、夜桜の生み出すノスタルジックな雰囲気は台無しだ。
 何かこの場を変えなければならない。……そうだ、酒の力を借りよう。何を思ったか、酒が飲めないというTさんに、一杯だけ缶酎ハイを勧めてみることにした。女性二人も「いいねいいねっ」「飲め飲めー」とテンションを上げて同調する。
 Tさんは主役になったようで気分がよくなったのか、「あん? 飲めねえって言ってるだろ」と言いながら、レモンサワーを一気飲みした。
 そしてTさんは酔いが回るよりも早く、急にエンジンがかかって「やっほう!」だの「よっしゃー!」だのと奇声を上げ始めた。ついに獲物に手を付けようと、彼はここぞとばかりにNさんの肩を抱く。彼女は口角を上げながら少し下を向いた。
 そのときだ。

 Tさんが、どばっと嘔吐した。Nさんの服に大量の吐瀉物が降りかかる。彼女は思わず、「きゃあっ」と大声を発する。近くにいた花見客たちが振り返った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と、Tさんは目に涙を浮かべて謝り続ける。どうしたらよいかわからず、パニックに陥ってしまったようである。
 私はTさんを横に寝かせて、Оさんは慌てて水を取り出した。Nさんのお洒落な服の上に彼女のストールを巻き付けた。
 ああ、終わった……。もう、すべてが終わった……。

 女性二人を駅の改札口で見送り、いつまでも手を振っていた。その頃にはTさんもだいぶ調子を取り戻していたが、明らかに元気がなかった。
 彼女たちが見えなくなると、二人で黙々と階段を下りる。酒を勧めてしまったのは私だ。まさかあんな展開になるとは思っていなかった。彼の言動も問題だとは思うが、私がとどめを刺してしまったのだ。罪悪感に襲われていた。彼と二人きりになったことで、いっそう緊張が高まる。
 少し前を歩いていたTさんが、振り返って私を睨みつける。

「ふざけんなよ。全部お前のせいだからな。もうお前なんか誘わねえよ。二度と俺の前に現れんな」

 そう言って、そそくさと東京の静かな闇へと消えて行く。
 私は小さくため息を着くと、ポケットに入れておいた桜の花びらを取り出した。掌に乗せて眺めながら階段を歩いていると、がくっと足を踏み外した。うっかり転びそうになる。誰にも見られていないか、周囲を見渡した。
 Tさんがこちらを振り返っていた。


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