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精神疾患寛解後の世界が怖いはなし

こんにちは、みつまめです。

私が勝手に先達(せんだつ)だと思っている、フォロワーのけんさん。
寛解後のことについて、先日記事にされていました。

けんさんの記事、とても考え込む内容でした。
だって寛解後の世界って、今の私にとってはどこか「怖い」ものだから。
今の状態が私の「普通」だから。

私のフォロワーさんたちは、治療中だったり、無事に「卒業」された方が多い。
だからこそ、ぜひおなじみさんに読んでいただきたい内容です。
みなさんは寛解後の自分がどうなっていたいですか?
寛解後の自分を想像できますか?
寛解された方は、想像どおりの世界でしたか?

けんさんの記事はこちら


そして、以前私も同じような内容を記事にしていました。
今私が考えてる事と全く同じこと言ってる。
ほんそれ。
(そりゃそうだ、書いたのは私だ)

やっぱり「ニライカナイ」はいい得て妙だと思うな。
経験談にはたくさんの学びがある。


寛解した後の世界は「つまらない」

寛解した後の世界は「つまらない」そうです。

前回私が書いた記事では、愛着障害を克服された方が寛解後の世界を「つまらない」と表現されていました。
けんさんもそう感じた、とコメント頂きました。

「つまらない」ってどういうことなのか、けんさんの記事を引用させていただくと

「寛解」とか「治療終結」になってもなーんも得られないの。

ただポンと穏やかな何もない日常が神経ズタボロで時間も経って、俺の場合は会社での立ち位置も失って「穏やか」に戻ったからこそ妻への罪悪感というか後ろめたさやこれから彼女を少しでも幸せにしなければならないという義務感とかそこにずっと取り組んで来たからか妙な「する事がないからっぽ感」とか。

治ったらエンディングじゃないのがミソ

「なーんにも得られない」「することがないからっぽ感」というのが、私の言う「つまらない」に該当するのかな、と感じています。

私は「躁鬱人」です。
具体的な診断名は知りませんが、双極性障害、愛着障害、パーソナリティ障害、気分循環性障害あたりのいずれか、もしくは併患しているのではないかと考えています。
疾患じゃないけど、特性としてのHSS型HSPもしっくりきます。
けんさんの言葉を借りるなら、どの看板を選ぶかってだけの話なので、診断名をつけてもらうことにあまりこだわりは持っていません。
わかりやすくて便利なんですけどね、看板。


「躁鬱人」である私は、ジェットコースターのような感情の起伏が「普通」だと感じています。
だって物心ついた頃から、少なくとも高校生の頃には今の私だったから。

コントロールできない感情の波にうんざりしている一方で、このジェットコースター状態でないと物足りなさを覚える自分もいるのです。
ジェットコースターって、楽しいですしね。
躁ってある意味無双状態ですしね。

更に私は妙に好奇心旺盛というか、探究心が過ぎるところがありまして。
熱狂の渦中にいる自分を、ナナメ上から冷静に観察・分析して、それをどこか楽しんでいる部分もあります。
何が飛び出すかわからない自分を、面白がってしまうというか。

「穏やか」にあこがれて、狂おしいほどにそれを求めているのも事実。
一方で、ジェットコースターが終結した先の自分がそれを受け入れ、穏やかに生きられる確証が持てないのも事実。

治療始めてから薬の量がMAXで、寛解なんて遠いはずの私。
いまから寛解後の世界を怖がるなんて、妙だという自覚はあります。
でも、怖いんだからしょうがない。

この恐怖心自体が「認知の歪み」であるのも自覚してはいるけど、今の私ではどうしようもないのです。

寛解後の自分をどう生きるのか

渦中にいるのは苦しいですし、治りたいと思うのが自然なはずです。
誰だって大量の薬を飲み続ける毎日は嫌だし、定期的な受診はめんどくさいし、事あるごとに「落ちる」自分は厄介だし。

でも、心のどこかで「卒業」するのが何となく不安、と思う方は割といらっしゃるんじゃないかな?と思ったりします。

けんさんの記事を引用させていただくと

症状や特性を「治す」ことって「治してから直面する特別凸凹してないけど過酷な現実」をどう生きたいかちゃんと意識する事なんだと思う。

治ったらエンディングじゃないのがミソ

本当に、この言葉に尽きます。
うっすらと、気づいてる人もいるんじゃないかと思う。
不安ではなくても、なんだか足元がスースーする感じというか。
急に知らない場所に放り出されて、呆気にとられてしまう感じというか。

自分の記事を引用します。

問題が解決した後に訪れるであろう「つまらない」日常を許せるのか、「つまらない」自分を認められるのか。
それが分からなくて、怖いのかもしれません。
解決したくない、という言い方は変なのですが、どこかそう思っている自分は存在するような気がします。

私は「つまらない」が怖いのかもしれない


私が怖いのって、要するに「病気じゃない自分」で「つまらない」世界を生きられるのかわからないから怖いんだと思います。

だって、この世界に適応しようとして「病気の自分」になったんだから。
「病気の自分」というお守りがあるから、やっと今を生きられているんだから。

今はまだ「怖い」で良いのかも

いま私は転職活動中です。
パワハラとか、人間関係の悩みとか、はっきりとしたきっかけがあるわけではありません。
私の「潮時だ」という直感のみ。

何故潮時だと思ったかと言うと、「変わらない」ことに虚しさ、哀しさを感じたから。 
私にとって「変わらない」は「つまらない」から。


条件面は今までのキャリアで比較するなら、一番良いです。
給与は高いわけではないけど、不満というほどでもない。
職場の人たち、仕事で思うところはあるけどみんな良い人。
子どもの用事で休みやすい。在宅勤務もフレックスもフル装備。
一応役職もあるし。上司の方針に賛同もしている。
何よりも究極の職住近接。圧倒的に朝が楽。
"適応障害"で休職していること、"一生付き合う必要のありそうな精神疾患"を患っているらしいことも把握してくれている。

「穏やか」を求めるのなら、転職は正反対のところにある選択肢です。
転職という特大の変化(刺激)なんて、躁鬱人にはめちゃくちゃリスキー。
診断名は適応障害のままで、伝えるべき疾患名はないので当然クローズド就労です。
寛解するまで今の場所にいればいいじゃないのよ、私。

「つまらない」が怖くて変化を求めてしまうことは、果たして病気に思わされているのか。
それとも私は元からこういう人なのか。
何らかの「病気」の渦中にいる私には良くわかりません。

でも、今はまだ「怖い」でも良いのかな、と思っています。
今後私はどう働きたいか?を考えるなら、変化を求めるのも別に悪いことじゃない、とは思う。

"荷が勝ちすぎる"と感じる案件でも、幸い面接の機会をいただける場合もある。
興味を持っていただける何かが、私にはあるらしい。
(面接で「私のどこに興味を持っていただけたんでしょうか?」という逆質問もしました。落ちる前提だから好き勝手に喋ってきました。もちろん喋った事はきちんと回収して、前向きなことばでお伝えはします。元営業だからそーいうの得意。笑)

治る気がない、かなり無茶なことする、と思われるかもしれないけど。
今の私は「つまらない」が怖くて、「積極的には治さない」という選択をしているのだと思ったら、なんだかスッキリしている自分もいます。

私の可能性を探って、どこまでも足掻いてみようと思っています。
転職失敗したら、その時はまた考えます。
行き急ぐ私は嫌いじゃないって言ってもらって、なんか嬉しかったし。 

ちなみに何故転職の話を出したかというと、私のジェットコースターは「仕事」で発揮されるから。
プライベート(夫婦関係、子育て)については、「穏やか」を受け入れて満足もしています。
「恋愛」を手放した若き日の自分を褒めたいです。
独特の多幸感や、それに伴う痛みに郷愁みたいなものは感じるけど、渦中に戻りたいとは思わない。
あれ?寛解後の世界、ピンポイントで体験しているとも言えるのか?

なお、けんさんは寛解後の世界を「つまらないけど、悪くない」とも仰っています。(めっちゃ要約)
寛解目指して治療中の方もご安心ください。笑

最後にしつこく貼っちゃいますが、ぜひけんさんの記事をお読みください。

みなさんは寛解後の自分がどうなっていたいですか?
寛解後の自分を、想像できますか?


*****
転職活動のきっかけのあたり


生きづらさ解消にむけてのあれこれ
ジェンダーとか母娘関係とか、わりかし色々入り組んでおります。苦笑



復職日記
もうすぐ丸2年。


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