★連載17★正しい事も、悪い事もない。全てありのまま。②
世の中には、良い面も悪い面もあるという事。
全てが良い事ばかりではなく、全てが悪い事ばかりでも無い。
どちらも在るものだという事を、実は、人は知っているのです。
そして、それは人にも言える事なのです。人にも良い面も悪い面もあります。どちらの自分も存在するのです。
ですが、自分が悪い面であると捉えていても、相手からすると、良い面と捉えてもらえたり、捉える人によって、受け取り方は様々であるという事なのです。
逆もしかりです。
自分自身がどのように捉えるか。
そして、相手がどのように捉えるか。
これに尽きるのです。
自分では良い面だと捉えていても、相手からすると、悪い面と捉えられてしまう事もあるのです。
そして、どちらも正しいし、どちらも間違いでも無いのです。誰にでも、在るという事を知ってはいるのです。
だけど、人を許せない。
だけど、人を認める事ができない。
苦しみや葛藤が生まれるのです。
そして、それら良い面や悪い面というのは、人の捉え方次第であるという事に尽きるのです。
☆苦しみの原因を知り
仕事に対して、あれだけ自分の人生をかけて、必死に、一生懸命やってきていた私。知識や技術、経験は無くても、働く事は可能なのだ。という事を知ったのです。
それを許せなかった自分がいたという事でもあるのです。
実は頑張らなくて良かった。実は一生懸命やらなくて良かったと、今までの自分を振り返る事で気付き、更には、最初から今までの仕事での自分自身の人生を振り返る事になるのです。
極論を言うと、『何でも在り』という事を体感したからでした。
一生懸命やらないといけないと思っていたのは私自身の勝手だったのです。
『何でも在り』という事を知り、自分自身が今まで仕事を通じて築いてきたモノは、一体、何だったのか?
自問自答でした。
今まで自分が目指してやってきた事は一体何だったのかと、深く考える事になったのです。
今まで頑張ってきた事。今まで一生懸命やってきた事。全て、私の財産であるとも感じていた、知識や経験は、『在っても、無くても良かった。』という衝撃的な事実。
晴天の霹靂
まさにそのような体験でした。
そして、今まで頑張って、一生懸命やってきて、苦しんできた事の答えを同時に知ったような感覚になったのです。
「そうだったんだ。知識や技術、資格や経験は、あっても、無くても良かったのだ。必ず必要なものでは無かったのだ。」
私は、自分自身が必要だと思っていた事を、一緒に働く職員に、押し付けていたのです。
そして、その思いが自ら苦しみを生んでいたという事。
「必ず持っていなければならない。」
もちろん、知識を知っていて、技術を持っていて、資格があった事に越した事は無いのですが、
「無くても、できる。」
今まで、あって当たり前と言われる施設で働いてきた私。でも、場所によっては違うという事。
必要だと思う人が、知識や技術を得れば良いという事であり、必要でないと思う人は、そのままで良いという事。
そして、それを知り、必要で無いという人に教える事や伝える事を頑張らなくても良いのだ。一生懸命やらなくても良いのだと感じたのです。
聞かれたら、教える事にスタンスを変えたのです。聞かれるという事は、その人が知りたい事なので、聴く耳があるという事なのです。
その方が効率も良いのです。
明らかに、知らない事で困っていても、教えようにも聴く耳も無かった人に私は一生懸命、この人が分かるように説明をするにはどうしたら良いか。などと考えてきていたのです。
全ては本人の自由であるという事であり、全ては本人の選択が基準であるという事なのです。
全ては相手の自由。
そして、私の自由でもある。
絶対に必要だと必死になって、相手に与えようとしていたモノは、必死にならなくて良かったモノだった。
それを教えていかなければならない、伝えていけなければならないと、そんな思いも必要なかったという事に気付き、肩の荷が下りた感覚がありました。
頑張らなくて良い。
一生懸命やらなくて良い。
人の為、職員の為、みんなの為なんて思ってやってきた自分。それすらも必要なかったという事。
無駄だったとは言いませんが、この学びの為に、今までの私の仕事人生はあったようにも感じています。
ですが、人の為にやらなくて良いのだという事を理解できた時、本当に肩の荷が下りた感覚があったのです。
「人を変えなくて良いんだ」
人を変える、教えて導く必要はまったく無かったという事なのです。
私のお節介
小さな親切、大きなお世話。
それに気が付いた時、思わず笑ってしまいました。
長い時間をかけて学んできた事ですが、こうまでしないと人は気付かない。
少なくても、私にはこれだけの時間が必要だったという事なのです。
私は知らずのうちに、人の為にしてきていて、自己犠牲的な感覚も持っていたのだという事に気が付いたのです。
「あなたに必要だから教えているのに、どうして伝わらないの!?」
私は自分の考えを相手に押し付けていたという事。
他人の為に頑張らなくて良かった。
他人の為に一生懸命しなくて良かった。
それを深く感じる事ができたのです。
人の為に頑張らないとならない。
人の為に一生懸命しないとならない。
と、自分の中で強い思い込みもあったという事なのです。
誰の為に頑張るか、何の為に一生懸命やるか。それは、他人へではなく、自分自身の為であるという事なのです。
研修の講師をしていても、「馬の耳に念仏」状態で参加している職員が多かったのは、職員は、「やらされている感」を感じていたからだと思ったのです。業務命令で参加しないとならないから、仕方なく参加していた。ただそれだだったのです。
「だから、もう頑張らなく良いんだ」
「だから、もう一生懸命やらなくて良いんだ」
と、肩の荷が下りたのです。
だって、研修に参加したくない、参加しても念仏を聴いているような職員に、どんなに頑張って伝えようとしても、本人が聞き入れるモードになっていないのですから、どんなに一生懸命やっても、何も伝わらないという事なのですから。
相手を責める事もできません。
強制参加を言われているのですから。
ですが、私がこの20年近い年月、仕事をしてきて、自分が得た、知識や技術、経験は、財産だという思いは変わりません。
「必要な人へ届ければ良いのだ」
という、無駄な努力をしなくても良いという事を知ったのです。
☆価値観から知る、自ら生み出す苦しみ
色々な体験を経て、私は、今後の自分の人生を考えるようになりました。私の中には、はっきりとした感覚を感じる事になったのです。
「私は、ずっとこの仕事をやり続けて行くのだろうか?この仕事で良いのだろうか??」
自分の考えや気持ちを押し付けてきたという、自分自身が苦しみを自ら生んでいたという事を知り、必要な人に届ける事、教える事こそが、私にとって一番良い環境だと感じたのです。
全ては、相手の自由であり、相手が何を選択するかなのですから。
必要としている人に教える事や伝える事を、私は望んでいたはず。必要としていない人に私は、自分の考えや思いを押し付けていたという事。
全員が全員、知識や技術を必要としているかと言ったら、それは違うのだという事。
料理を習いたくない人に、無理矢理、調理実習をさせていたようなものだったのだと思い知りました。
小さな親切、大きなお世話をしていたという事だったのです。もちろん、業務、服務の範囲ではありましたが、結果はこんな感じです。
必要であるか、必要で無いかというのは、そもそも、その人の『価値観』であるという事なのです。
個人の『価値観』の違いによって、捉えられているものであるという事を感じたのです。
私は、自分の考えや思いという、私個人の『価値観』を押し付けていたという事なのです。
私にも『価値観』があり、相手にも『価値観』があるのです。
何に価値を感じるか、それは人それぞれなのです。
「そっか~。価値観が違うから、人はそれぞれなんだ。私は、自分の価値観を押し付けていただけだったのだ。」
この事こそが、私にとって大きな学びとなり、大きな気付きとなったのです。
苦しみを作り出していた原因。
それは、自らが作り出していたという事。
自分の中の『価値観』を相手に押し付けて、葛藤してきたという事。
「そうだったんだ。私は、自分で勝手に苦しんできていたのだ。」
それを深く感じたのです。
それと同時に
『価値観』の違いで、人は苦しんでいるのでは無いだろうか?
『価値観』1つで大きく変わるのです。
必要だと思う人の『価値観』
必要で無いと思う人の『価値観』
正に、『価値観』の違いが、大きく人間関係に左右しているという事。
「そっか、人の価値観を知って、受け入れる事ができれば、自分自身が楽になるのではないのではないだろうか?」
私の興味関心は、この『価値観の違いから苦しみを生んでいた』という事に対しての気付き。
自分の『価値観』と、他人の『価値観』の違いや、捉え方、そして、他人の『価値観』を受け入れる事が、自分が楽に生きる近道では無いだろうか?と、辿り着いたのです。
そもそも、知識や技術、資格や経験に関して、何で私は、強く、必要なものであると捉えるようになったかというと、
「仕事をする上で、自分が困らず、仕事がしやすくなるから」
と、いう私の『価値観』からでした。
仕事がしやすくなる=生きていきやすくなる
という思いがあったからです。
私が必要としていたのは、知識や技術、資格や経験ではなく、実は、
「生きていきやすい自分自身」
だったのでは無いかという事に気付く事になりました。
忘れていた大切な事を思い出した
忘れてはいけない事を思い出した
そんな感覚でした。
それがきっかけとなり、自己への探求がスタートしたのです。
あれから4年。
私は自分自身と向き合い、自分自身の視えない部分である、自分自身の中の考え方、捉え方、感情や気持ち、そして感覚などの『精神世界』と向かい合う事になったのです。
一人でも多くの人が、最期まで自分らしく、幸せに過ごせますように
最後までお読み頂きありがとうございました
次回もお逢いしましょう♬
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