ミナキ

45半ば。うつで退職後、双極性障害2型+社会不安障害と診断、3年目の無職生活に突入。と…

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45半ば。うつで退職後、双極性障害2型+社会不安障害と診断、3年目の無職生活に突入。とあるきっかけで「私はASDなのかもしれない」と診断に踏み切る。2023.12.ASDとPTSDの診断確定。「私」を、残すnote。

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【3日目】ASD診断結果と降って湧いたもう一つの診断「PTSD」

【3日目】 初回診察から約2ヶ月後の12月1日、1回目の担当医師からの診断結果を聞く日が来ました。 前回と同じ診察室から、予約時間ぴったりに入室を促すアナウンスが流れて入室。 一度目の問診と同じ先生と、1日目のあと、2日目の検査のあと、今日までに何かありましたか?どうですか?と聞かれ、約2ヶ月間にあった私の中の変化や検査の感想を話しました。 数分のやりとりの後、本題である発達障害についてに、話題が移ります。 先日の心理検査のデータらしきものが映し出されたPCディスプレ

    • 【2日目】WAIS-ⅣとAQ

      ※あくまで私自身の体験記録です。学術的にも医療的にも正確さは皆無です。一患者の雑記として「こんなもんか」と読んでいただければ幸いです。 発達障害の診断に向けた1回目の診察、「医師からの問診」から約1ヶ月後。 2回目の来院で、 AQ(自閉症スペクトラム障害のスクリーニングテスト) WAIS-Ⅳ、ウェクスラー成人向け知能検査(16歳から90歳まで) の、ふたつのテストを受けました。 今回は直接、臨床心理室へ向かい、担当の臨床心理士さんと一対一の検査です。たくさんある心理

      • 2023.12.01に生まれたよ、45歳だけどさ

        寒いけれど晴天の2023年12月1日、45年かかって「私」が生まれた。 この日、とある大きな病院の精神科外来の一室で、担当してくださった先生から「アスペルガー、ASDです」と静かにはっきりと伝えられた。 その瞬間、「ASDの私」がこの世に登場し、居場所を与えられた。 大変おひさしぶりです。ミナキです。 3年前にうつとパニックで失業し、その後も迷走しつづけ、社会復帰を目指した記録のために始めたnoteですら書けなくなっていました。 noteを開き、過去の投稿を見直す気力も

        • 自らに、重なる父の面影が、切れない繋がりを知らしめる。

          似ているところなんて、ない。なんて、思っていた。 他人に言われても、ピンとこなかった、面差しが親に似ているということ。 昨日、友人と出かけた先で、スマホで写真を撮られてしまった。 撮られてしまったと表現してしまうのは、私が写真嫌いだったからだが、実は年を重ねてきて、前ほど嫌ではなくなった。 心境の変化はいかに起きたかは、また別の機会として、自分を客観的に俯瞰するには、写真がいちばん手っ取り早いと気付いたから。 顔立ち、表情、姿勢、肌の具合、しわ、髪のつや。 真っ正

        【3日目】ASD診断結果と降って湧いたもう一つの診断「PTSD」

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        • 参考
          2本

        記事

          「余計な一言」は、本当にいらない言葉なのか

          「ひとこと多い」「余計な一言」と、指摘されることが多かった。 主にも親や年上の人から。 物心ついた、幼稚園〜小学生高学年あたりまで、私は「ひとこと多い」「口答えする」と、大人に眉を潜められるこどもでした。 もともとおしゃべりが得意ではなく、頭の中で、話す順序がとっ散らかっているような状態だったので、言いたいことがうまく伝えられない。 話し出して、やっと言いたいことに辿り着いた先で発した言葉が、「余計な一言」と捉えられてしまうような具合。 ようするに説明下手、感情の言語

          「余計な一言」は、本当にいらない言葉なのか

          5分以上話をした人数=2人という365日

          気がつけば、一年が経っていた。 この一年はとても曖昧で、ただただ毎日不安と無力感が寄り添っていた。 お久しぶりです。 前回投稿したのが去年の10月。そろそろ8月も終わる今になってやっと、noteを、というよりもネットを通じてでも、外を見ようと思えるようになりました。ミナキです。 仕事はまだ見つけられていません。 心はまだ病んでいます。摂食障害が完全復活しました。 体も連動して、心因性の全身不調と痛みが続いています。 こうなってくると、原因と因果の順番や種類さえも曖昧模糊

          5分以上話をした人数=2人という365日

          入り口と出口が揃っているとは限らない

          入ったときは、必ず出口があるものだと信じていた。でも進んでいくうちに、「あれ、出口ないかも」って壁に両手を当て「マジかこれ」ってなる。そんな半年があっという間に経ってました。 一旦良くなってきたような、「あ、これはそろそろ行けるかも」という感情の戻りがあって、同時に経済的にも限界だと就活を始めた夏前から、実は一歩も足を踏み出せていません。 何をやっていたのかと問われれば、「何もできていません」としか答えられないのですが、本当にそうです。 就活もして面接もして最終面談まで

          入り口と出口が揃っているとは限らない

          恋不知が不幸か否か

          恋をしたことがない人生はつまらないのか、否か。 どうも私は現在の43歳に至るまで誰かに恋をしたことがないようです。 他人事みたいに言うなと怒られそうですが、性別問わず好意は持てど恋愛感情に移行した憶えが皆無なので仕方ない。 ほんのり意識して、どきどきするとか、その人のことばかり考えてしまうとか、ああ、それはありますとも、主に『恐怖』で。 違う、それ、恋愛じゃない。 一定の人が頭から離れず動悸がして、好かれようと嫌われようと構わないので波風立てたくないっていうのは恋で

          恋不知が不幸か否か

          マスクの下で修行中。筋肉痛よ来い。

          笑顔には筋肉が必要だ。 うつになってからこっち、どんどん笑顔がなくなっていった。まだ仕事が出来ていた頃、接客業なので笑顔は作れていたけれどコロナが流行し、マスクで口元が隠れ出してからは「笑顔」がおざなりになっていたように思う。 目元だけで笑っていても、口角が上がらないままだと本当の笑顔になりきれない。実は見ているとそれがなんとなく分かってしまう。目だけ笑っていてもなあ、って。 そこで改めて笑顔を鏡の前で作ってみた。 にっこり口角をあげ、頬を持ち上げる。 お、おおう、

          マスクの下で修行中。筋肉痛よ来い。

          私にとって最初の「他人」は母だった。

          同時に「女」という性別を意識したのも母だった。 父子家庭で育った私ですが、少なくとも幼稚園時代までは離婚していなかったので、母親との思い出もあるにはあります。 ただし全て、とても距離感が遠いのです。 もともと三歳の頃から不倫をしていた母は、当時単身赴任をしていた父がいない時、浮気相手と会う際は私を連れて行きました。車の中や商業施設、遊園地などでおとなしく座っててね、と食べ物を渡された記憶はたくさんあります。 その視線の先でサングラスをした男の人と手をつないだり寄り添っ

          私にとって最初の「他人」は母だった。

          生まれた家をGoogleストリートビューで見てしまった。もう誰もいない廃屋だった。

          それは私の祖母が亡くなった、ということだ。 小学生の時に両親が離婚した。 それまで母の祖父母の家、つまりは母の実家に住んでいたのだが、父は離婚後に祖父母との接触を一切するなと言った。 連絡も会うことも。借金を残し不倫の果に蒸発した母の生家、もし今後なにか母がやらかして、子供である私になにか不利益なことが降りかかるかもしれない。だから関わるなという意味で言っているのは分かった。 しかし、私は両親が私を放置している間、祖父母からごはんと少しの愛情を貰って生きていた。だから

          生まれた家をGoogleストリートビューで見てしまった。もう誰もいない廃屋だった。

          ファザーコンプレックスとチョコレート

          以前から触れているように私は父子家庭でした。 小学生の時に両親が離婚し、その後はずっと父と2人でしたが、離婚する前からほとんど母は家にいなかったので、幼少時からの親との記憶はほぼ父です。 本当に小さかった頃は父の思い出はそれなりにあります。徐々に父と母の関係が悪化していくにつれ、2人の子供(私)への関心は薄れ、最終的に放置に近くはなりましたが、それでもやはり親の影響力というのは濃い。 最近になって私はどうして食に関する仕事をよく選んで来たのだろうと改めて考えるようになり

          ファザーコンプレックスとチョコレート

          パワハラがPTSDになることもあるようで。

          仕事をやめて治療休養期間に入り、ようやく読書したり楽しいと思うことも増えてきた2月末。 防ぎようのない事故のようなもので、今回のうつ退職に至った対象人物と偶然かち合ってしまいました。 目線もばっちり合い、近距離だったので被害妄想でもなんでもなく思いっきり睨まれてしまい、まさに蛇に睨まれた何とやらになった私。 これ以降、なんの試練なのか今まで数ヶ月会いもしなかったのに、二週間の間に3回エンカウントしてしまうという連続事故が起き、まったく眠れなくなってしまいました。 自分

          パワハラがPTSDになることもあるようで。

          自分軸と自己中心的との違いがわからない

          私は自分で考えて自分を信じて行動するという点がまったく育っていないまま、大人になったんだなとようやく気がついたのは鬱のおかげです。 なにかに依存したり(それは物であったり人であったり事柄であったり)、あの人がこうしろううしろっていうから、と自己責任を持ちたくないがばかりに他人軸で生きてきました。おそらく今もそうです。 なぜそうなったのか、と。ずーっと考えていたところ、随分子供の頃のことを思い出しました。 私は周りの大人から「変わった子」「突拍子もないことを言う子」「大人

          自分軸と自己中心的との違いがわからない

          休むことに慣れてくる→正気じゃなかったって分かってくる→苦笑いが出た。

          まったく仕事をしない、求職活動も一旦置いといて、予定も特にいれない。 そんな生活になってやっと3週間経ちました。 最初の一週間は慣れなくて辛くて、落ち着かなくて無意味に調べ物したり動き回ってたり。 次の二週間目は疲れがどっと出てきて心より体のダルさに這うように過ごし。 3週間経った今、やっと何も考えなくてもいい、思いつくままに気分で動いてもいい、と思えるまでになりました。長かった。 鬱だとか適応障害だとか心に傷を負ってしまう人は、自分も含めて【休む】ことが極端に不得

          休むことに慣れてくる→正気じゃなかったって分かってくる→苦笑いが出た。

          自分が不幸だと可哀相だとか。

          実は思ったことがほぼなかった、と気がついた。 「自分が悪い」「自分のせいだ」とはしょっちゅう思うけれど、「どうして私がこんな目に合わなきゃいけないのか」「私ってなんて不幸」ついでにいうと誰か他人に「〇〇ばいいのに(禁止ワード)」とかも思ったことが本当にないです。 なので何時も何かしんどいことが起きたときは「自分は何をしてしまったのか」「何か悪いことをしたのでは」「自分はどうすればいいのか」に終始します。 その結果、最悪の事態(現時点で)に陥ったときも、「ああこれはもう仕

          自分が不幸だと可哀相だとか。